待降節黙想

「心を開いて、救い主を待ち望みましょう」


 待降節とは、未来に向けて3つの事を待ち望み、心と体で準備するためにこの季節を表す紫色が使われています。

 1つ目は新しい典礼暦が始まったばかり、2023年の主の御降誕を迎えるのに、目を覚まして、主を待ち望んでいます。

 2つ目は主イエス・キリストの再臨を待ち望む姿勢を立て直すために心を整えて、日々送るように呼ばれています。

 3つ目は私たち個人の最期をふさわしく迎えるようにいつも心を引き締め注意深く生活するよう呼びかけられています。待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになっています。

 更に待降節において、キリスト者である私たちは救い主の恵みをいただくことに希望を持って生きています。簡単に言えば、待降節は希望を生きる瞬間です。

 

 待降節には救い主を待ち望み、目を覚まして心を準備し、何よりも先ず心を開いて赦しの秘跡を受けましょう。赦しの秘跡を受ける時、私たちが神様に対しても隣人に対しても、自分自身に対しても悔い改め、救い主の声を聞き、神の身元に立ち返るよう呼ばれています。

 実に、救い主がすでに来ておられます。2022年前に来て下さいました。今も私達と共に生きておられます。それがインマヌエルと言われています。

 待降節には、あの救い主と私達が共に生きている事を再認識しています。ですから、待降節において救い主の永遠の希望を生きているでしょう。

 赦しの秘跡は、ご存知のように4段階行います。救命、回心、告白、償い。その内の救命とは、心を開いて、生まれてから今まで行った行為を反省します。更に、前回の告白から今現在までの罪を告白します。神様に対面して神様の前で人生の道のようなノートを1枚ずつ開いて調べて反省します。何故なら、神様は真善美であり、全知全能完全な方なので、不完全である私達の全ての事をご存知なのです。

罪の告白:罪を犯してしまった私たちは神に反して神の望みに応えない、神のみ旨を行わないので、誰でも素直に自分の行いを反省し、神の望み通りに応えるように招かれています。

悔い改めの祈り(回心):自分が悪意を行ったことを認め、これから徹底的に行わないように決心します。そすて、生活の全体を改善します。そうすれば神の呼びかけに応えるようになります。

罪の赦し:行った全ての行為の内、先に大罪を告白し、次に覚えている小罪を告白します。心の底から回心し、告白するなら全て赦されます。

償い:教会の代理者である司祭が告白を聞いて、今後のためにアドバイスを出し、償いを告げられます。深く回心し、償いを素直に受け止め実践するならば赦しの秘跡が有効になります。


 以上のように、私たちが目を覚まして道を整え、心を準備し、救い主を待ち望みます。例えば、新約聖書におけるザアカイの話は、私たちが赦しの秘跡を受けることと同じです。

 ザアカイは背が低くてイエス様が見えないので、イチジクの木に登りました。周りの事は気にぜず、恥も外聞もなく、ただひたすらイエス様を見たい一心でした。それはザアカイが自分の限界を認め、救い主と出会いたくて悔い改め始めました。

 次に、ザアカイが喜びを持ってイエス様を迎えました。ザアカイの家でイエス様と共に食事をし、イエス様と直接出会うことで彼は完全に変わって素晴らしい償いを行いました。自分の財産の半分を売って貧しい人々に施すように決心しました。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何か騙し取っていたら、それを4倍にして返します」イエス様は言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:8−10)

 このようにイエス様と出会った後のザアカイは救われました。深く悔い改め、イエス様の声に聞き従い生活を改善し、新たに変わってきたザアカイです。このザアカイの中に私たちの姿を(笑顔と態度)を見ることが出来るように、聖霊の助けを願いましょう。

 繰り返して、救い主はもう来られましたが、救いの計画はまだ完成されていません。救い主が私たちを待っています。そして、私たちの心のドアをノックして共に食事をするように招かれています。これはヨハネの黙示録に書かれているように「熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示3−20)

 確かに、私たちは主を待ち望むだけではなく、主が私たちを待って下さっています。この待降節の間にそれぞれの心を開き、救い主を待ち望むのが大事なことです。自らの心を開かなければ、主は入ることが出来ません。

 マタイの場合も同じです。自分の弱さを認め、イエス様の呼びかけに直ぐに応えて徹底的に従ってイエス様について歩んでいました。私たちも自分の弱さと心の状態を認めたマタイのように、イエス様の声を聞き従い歩んでいくことが出来るように招かれているでしょう。

 また、救い主を相応しく迎えるのに洗礼者ヨハネに倣いましょう。洗礼者ヨハネの役割は預言者イザヤが語るように「主の道を整え、その道を真っ直ぐにすること」です。洗礼者ヨハネは最後の預言者と言われています。主イエスの道備えをする人、主イエスを指し示す方、主イエスを人々に紹介する人です。

 今、クリスマスを迎える準備をする待降節の期間です。私たちの前に立って、洗礼者ヨハネに呼ばれています。「悔い改めよ。天国は近づいた」と。

 悔い改めるということは、私たち自身が、神様と自分の関係が、今、どのようになっているか、毎日の生活の中でどのような状態なのかをよく調べ、吟味することです。

 神を神としない、神に背く、神以外のものを神とする神を無視する、そのような姿になっていないかどうか振り返ってみましょう。

 洗礼者ヨハネが指し示したあの方を、主よ、私の家にどうぞおいで下さいと言って、心からお迎えしたいと思います。良き準備をして主の御降誕の日を迎えましょう。

 待降節に私たちは馬小屋を作り、色々な飾りを施し、準備するのは外側のことです。最も大切にするのは、心を整えて、希望を持って、救い主を待ち望むことでしょう。


この待降節が御父の御心に応える時となりますように。