聖霊降臨の主日

 復活祭から50日目に聖霊降臨を祝います。これは旧約の歴史の中で過越祭から50日目に律法が神の民となったイスラエルに与えられたことを祝うあの五旬祭と重なります。旧約の時代には神の民となったのはイスラエルという一民族だけでしたが、新約の時代には全ての国の民が神の民となる道がイエス様によって開かれ、使徒たちの働きを通してそれが実現し始めるのです。

 第一朗読である使徒言行録において、聖霊降臨の様子が語られています。

 聖母マリアと使徒たちの集まっているところに聖霊が「炎のような舌」の姿で下りました。その時、全世界の各地からエルサレムに集まっていた人々は、各々の故郷の言葉で使徒たちが語る言葉を聞きました。バベルの塔の事件以来、人類は言葉の壁のために分け隔てられていましたが、聖霊はその心の壁を突き抜けて福音に耳を傾けさせたのです。

 

 福音書においては、聖霊が「真理の霊」「弁護者」「告げる方」としてイエス様の口から語られています。聖霊は聖書の中で色々な姿で描かれています。「鳩」「火」「息」「風」「舌」などです。これらのものに共通するもの、それは「命」のシンボルという事です。火や水が無ければ生きられません。生きているという事は「息をしている」ことであり、鳩はあのノアの洪水の時、地上が再び「人間が生きることが出来る世界」となったことを告げ知らせました。

 今の私達にとって聖霊をイメージするならば、「気」という言葉でどうでしょうか。「気」という言葉は色々な時に使われています。「元気」「勇気」「やる気」「気が抜けたような」「気が付かないで」「気を付けて」「気にしないで」など、かなりの用法があります。では「気」とは何でしょうか、とあらためて考えてみると「これこれである」と説明することが難しい言葉ではないでしょうか。それこそ「雰囲気」で使っていませんか。目には見えないけれど、私たちが自然にそうするようになる「気分」「気持ち」はどこから来るのでしょうか。私たちが「やる気」になるのはどんな時でしょうか。

 

 聖霊は父と子の愛の交わりであると言われます。目には見えないけれど、愛の絆を持った者同士には「思い・言葉・行い」が通じ合っているのです。相手がそこにいなくても、その相手の事をいつも思い、そのために語り、そのために行うのです。聖霊というお方は父と子と私たちを結ぶために父と子から送られてくるお方なのです。