復活の主日

福音朗読箇所 ヨハネ20・1-9

[説教]

 

 私たちが待ち望んでいた大きな出来事、主の復活祭を迎えました。皆さんはどういう気持ちでしょうか。喜びの気持ち、感謝の気持ち、あるいは寂しい気持ちですか。イエスの復活を相応しく迎えることが出来るように、灰の水曜日から受難の主日まで、私たちは定期的に悔い改めと回心に招かれました。どうでしょうか、その長い準備の期間を大切にしましたか。あるいは準備があまり出来なかったでしょうか。それにしても、今日イエスは死の限りを超えて復活したことで、私たちの救いのための計画が完成したために、相応しい準備が出来なくても、今日、全世界のカトリック教会と共に感謝と喜びのうちに祝いましょう。

 皆さん、復活の一つの証明は空の墓です。しかし、それだけでは復活について説明することは難しいと思います。空の墓だけなら議論の原因となるはずです。長老たちや律法学者の立場から見ると、復活の出来事を証明するために弟子たちはイエスの遺体を盗むはずだと思われたかもしれません。逆に、弟子たちからイエスを完全に引き離すために律法学者と長老たちはイエスの遺体を滅ぼすはずだと弟子たちは思われたかもしれません。ですから復活の出来事の中で天使たちの表しとイエスが直接弟子たちに姿を見せるのは本当に大切な事なのです。

 しかし、現在私たちは直接イエスに出会うことが出来ないでしょう。あるいは直接イエスの姿を見たことがある人はいるでしょうか。いないでしょう。私たちがイエスの事を知るのは聖書を読むことを通してだけでしょう。ですから、直接イエスに会うことが出来なくても、私たちは信仰を守り続けることが出来るのは不思議だと思います。それは何故でしょうか。それはイエスの力の働きの為だと思います。復活した後、弟子たちを派遣する前に「全世界に行って、全ての人を私の弟子にしなさい。私は世の終わりまであなたと共にいる」とイエスは約束されました。ですから、今までカトリック信仰が広まっていることはそのイエスの約束の実現であると思います。今、私たちがイエスに従い、弟子になったのはイエスの働きの為なのです。

 ところが、イエスが人間の救いのために働き続けているのに、何故信じない人が多いのでしょうか。イエスが復活して、人間を救ったからと言って人間が必ず信じるとは言えません。何故なら、神様は人間に対して、考える恵みと自由の恵みを与えて下さったからです。その恵みは素晴らしい事であると神様は思いました。その恵みによってアダムとエバが罪を犯しても、神様はその恵みを取り戻すことを望まなかったのです。結果として、今でもイエスの救いの招きに反応しない人は少なくありません。しかし、確かなことは人間の反応に関係なく、イエスは全ての人間が救われるようにと望まれています。つまり、イエスはその信じていない人々をも愛しておられるのです。その人々は良いことを行う限り、自分の口で認めないかもしれませんが、神様は彼らを伴っていると思います。

 良いサマリアの例えを思い出してください。そのサマリア人はユダヤ人でもなく、神を信じる人でもありませんでしたが、愛に満ちている生活をすることで、神様は彼を愛されました。ですから、心を尽くして信仰を言葉ではっきり言う私たちは幸せだと思います。その信仰によって私たちは救いの恵みを頂くことが出来るようになったからです。生きている間にその救いの恵みを説明することは難しいかもしれません。信じても生活の中で多くの問題があるからです。しかし、自分の事だけでなく、家族の事、特に既に亡くなった家族の事を省みて下さい。神様が永遠の救いという天国を約束したと信じることで私たちは落ち着く、安心すると感じるはずです。死は命の滅びではなく、永遠の命への門であるという信仰のために、愛している人の死は悲しむことだけではなく、大きな恵みであると感じるはずです。そのような信仰がないと、命に対してどう考えるか私たちは迷ってしまうかもしれません。

 今日、遂にイエスは復活され、私たちを罪と命の滅びから救ってくださいました。感謝しながら、問題が多くある世の中で信仰を守り続けながら生きていくことが出来るように、神様の導きを共に願いましょう。アーメン!