四旬節第4主日

福音朗読箇所 ルカ15・1-3,11-32

[説教]

 

 生きている父親に、自分の分け前の財産を求めるのは、父親がもう死んでいるのと同じように考えることです。つまり父親に向かって死刑宣告をしたのと同じ行為です。それにもかかわらず父親はダメだと言ったり腹を立てたりしませんでした。

 もし、この状況が私の場合だったら私は戸籍で名前を消したり殴ったりしたかもしれません。しかしこの父はそうしませんでした。自分にそういうことを求める息子の未来が明らかに予想出来ましたが、父は息子に失敗する機会を許しました。

 韓国では、実際に子が失敗を味わう前に両親がそれを防いでしまう場合が少なくありません。そういうことが愛だと信じながら決まっている道から外れる事を許しません。

 それでは福音の中の父親は息子を愛していなかったのか。そういう事だとは言えません。きっと誰よりも息子を愛しているはずです。しかし失敗につながる未来が明らかだったのに防いでくれませんでした。もちろん失敗しないように導いてあげるのも愛だと思います。しかし失敗する機会を許すのも愛だと思います。なぜなら韓国の場合を話しましたが、失敗を味わなかった子らは自ら再び立ち上がることが出来ません。一度も転んでみなかった子は立ち上がり方が分からないからです。なので失敗が予想されても最後まで信じて待ってくれるのも他の愛の方法だと思います。。

 

 私たちは善を通してそして悪を通しても神様を向いて進んでいくことができます。その方の限りない愛を通して、例え罪を犯したりする私たちですが、憐れみ深いその方の許しを通しても神様の愛が感じられます。

 今日の息子はもちろん正しくない道を選んでしまいましたが、誰よりも父親の深い愛を感じたはずです。私たちは今日の福音の出発点は、正に自分で罪のない人だと思っていたファリサイ派の人々と律法学者たちの不平から始まったことを忘れてはならないと思います。

 罪深いところに恵みも深いと話した使徒パウロの言葉を思い出しながらいつも悔い改める私たちを暖かく抱いてくださる神様に感謝しましょう。そして私たちの中にあるかもしれないファリサイ派と律法学者たちの姿を脱ぎ捨てて、私たちに罪を犯した人々に憐れみ深い父親のようになれたらどうかと思います。