年間第3主日 (神のことばの主日)

福音朗読箇所 ルカ1・1-4,4・14-21

[説教]

 

 私たちの人生は生まれた時から、ただ与えられた事から始まりました。極めて個人的なものである名前ですら両親から与えられたのです。そしてその時から生きていくようになる全ての環境、例えば家の都合とか経済的な問題、まして先天的な性格などが私たちの意思とは構わず与えられたのです。

 こういう理由で私の子供の頃には「俺はどうしておもちゃをたくさん買ってくれるお金持ちの親と会えなかったのか」とか「俺はどうして勉強をしなくても、良い成績が取れる頭をもらえなかったのか」と考えたりしました。私はどうしてこんなに大柄で背が高くなって団体写真の撮影の時にいつも後ろに行かなければならないのかと思ったこともあります。もちろん背が高くなりたい子供たちの立場で見るとありえない話だと思うかもしれません。しかし人間なら、いつももらえなかったのを他人と比べながら、産んでくださった親を、この世を、神様を恨んだこともあるでしょう。

 皆さんはどうですか?皆さんの人生に与えられたことに十分満足していますか。多分、そうだと答えられる方は一人もいないと思います。神父の暮らしを生きていく今も説教の準備をする時にずっと思うのは「プロテスタントは自分が選んだ聖書の言葉で毎週説教をすると聞いたのに、一体何故カトリックは毎週、与えられたのによって準備をしなければならないのか」ということです。正直に言えば、福音の中でも説教の準備をしやすい部分も、しにくい部分もあります。しかしそれに構わずいつも与えられた聖書の言葉によって説教をすべきなので大変になる時も少なくないです。今皆さんに申し上げている私ですらそう思うこともあります。

 しかし、今日皆さんと共に考えてみたいのは会堂でイエス様に渡された巻物です。預言者イザヤの巻物がイエス様に渡されたのに、これはイエス様が選んだのではなく渡されたもの、つまりイエス様の意思とは構わず与えられたのです。イエス様は与えられた言葉の中で今から自分がすべきの使命を宣言したのです。どうしてイザヤの巻物が渡されたのかと文句を言わずに与えられた現実の中ですべき使命を探しただけです。一体何故、という考えと他人と自分の都合を比べ始めると終わりがありません。

 私たちはただ、今与えられた現実の中ですべき事を探さなければならないと思います。これが今週私たちに与えられたメッセージではないかと思います。

 是非このメッセージを通して、今の現実に感謝しながら私たちに与えられた使命を行ってイエス様の協力者になって差し上げればどうかと思います。