主の洗礼

福音朗読箇所 ルカ3・15-16,21-22

[説教]

 

 カトリックの教えによると、洗礼は罪のある人だけが受けるものです。そして人ならば全て誕生の時から原罪を持って生まれるようになリます。それゆえ母親の体から生まれる人は例えそれが赤ちゃんでも必ず洗礼を受けなければなりません。

 しかし原罪を持たないで、つまり無原罪でお生まれになった方がおられます。その方は皆さんもご存知のようにイエス様です。イエス様は聖霊によって原罪を持たないでこの世に来られたから洗礼が全然要らない方です。ところがイエス様は今日、洗礼者ヨハネを訪れて行って洗礼を受けました。これはまるで罪のない人が神父にゆるしの秘跡を求めるのと同じ場合だと思います。皆さんは、あえて必要ではないイエス様の洗礼についてどう思いますか。そしてこの要らない洗礼にあって天から聞こえた神様の褒める言葉についてはどう思いますか。

 イエス様は要らない洗礼を受けて神様はそれについてお喜びになりました。その理由は次のようです。子供達が泥だらけの所の中で遊んでいるのを見るとどうしますか。ほとんどの人々はそばに立って「そこは汚いから早く出なさい」と叫びます。そうしてもほとんどの子供達はその叫びを気にせず遊び続けます。しかし直接泥だらけの中に入って行って子供の手を握って「ここは汚いから一緒に出て行かない?」と言えばほぼ出てくるそうです。問題は子供を連れてくるために泥だらけの中に入って出ると自分の服が汚れるようになるのです。子供を汚れから連れてくるために自分も汚れる事を構わずに泥だらけの中に入ったこと、これが主の洗礼の意味です。

 イエス様も神様の右の座に座って、人に向かって「罪を犯すな」と言うだけでは、人はその声に耳を傾けません。だから神様が直接に人になられて人間と同じところで、同じラインに立って出発することです。

 神様であるイエス様は人間になるために神様の座から人間の座に、つまりレベルがダウンになったのです。結局、父は自分の代わりに子が人間を救うために人になって人間の洗礼を受けた事について喜ぶしかなかったのです。自分が人間になる事、自分が汚れるようになるのも構わない程、イエス様は私たちを愛しています。

 私たちもこの愛に応えるために自分がどうなるかを構わず、助けを求める兄弟姉妹が居れば直ぐ駆けて行って助けになってあげればどうかと思います。