主の公現

福音朗読箇所 マタイ2・1-12

[説教]

 

マタイ福音書はもともとユダヤ教からキリスト教への改宗者に向けて書かれたと言われています。ですから、しっかりとユダヤ教が大事にしてきた旧約聖書を説明しながら書かれています。そしてまさに、今回の福音はイエスが生まれたのはユダヤのベツレヘムだった、そのベツレヘムはどういう所かと言うと、ダビデ王が生まれたところであり、ダビデの子孫であるメシアが生まれると約束されていたその場所でイエスがお生まれになったという事が書かれています。それと共に、その約束がありメシアを待ち望んでいるはずだったユダヤ人達が皆不安を抱いたとも言います。特にヘロデ王は自分の地位を脅かす者が現れるのではないかと不安を抱きました。しかし、民の祭司長や律法学者たちも集められ話し合いましたが、自分たちもそこへ見に行ったというようなことはしていません。つまり、マタイが書かれた時代には異邦人への宣教が広まっていた状況でもあったようで、そういうこともあり約束されたユダヤの人たちではなく、この外国の占星術の学者たちに示されたことがマタイによってはっきりと書かれています。

多くのクリスマスの馬小屋飾りですが、宿屋に泊まる場所が無く、イエスは厩で生まれた後、飼い葉桶に寝かされて、その後、羊飼いたちが拝みに来て、更にその後、学者たちも拝みに来たという場面が表されています。しかし、今回の福音を見て分かると思いますが、生まれた時は厩で飼い葉桶に寝かされていましたが、ずっとそこへ居た訳ではないと思います。学者たちはその様子を見て喜びにあふれて、「家に入ってみると」と書かれています。ですから厩でずっと生活した訳ではなく、誕生場所はなかったけれど、その後ヨセフは自分の故郷であるこのベツレヘムでなんとか家を探してしばらくそこへ住んでいたのではないかという事を考えることが出来ます。

そして、幼子は母マリアと共に居られたとあります。ヨセフの事は書かれていません。恐らく、学者たちが訪れた時にはヨセフは既に次の事を考えて必要なものを探しに行くという事を聖家族の為に色々努力をしていたのではないかと思います。

昨年12月8日でヨセフ年が終わりましたが、ヨセフについて考える1年を私たちは過ごしてきました。聖書にはあまり出てこず、目立つ存在ではないヨセフですが、このヨセフによって聖家族は守られていたという事を私たちは色んなことから見ていくことが出来ると思います。そして本当にこの最初の大変な時に、ヨセフは影になり、そして支えるために一生懸命働いていたのではないかと思います。この後、聖家族はエジプトに逃れます。自分の故郷であるベツレヘムでもそんなに良い状況ではなかった彼らが、更に外国の地のエジプトに逃げていくのはとても大変な事でした。それを支えたのは何かというと、今回の捧げ物であった黄金・乳香・没薬だと思います。王の印の黄金、祭司の印の乳香、最後の葬りのための没薬、という意味のある3つの贈り物はとても高価な物でした。ですからこの高価な物を売ることによってこの聖家族は何とか生活して行くことが出来たと考えることが出来るのではないでしょうか。

公現というのは、全ての民に救い主が示されたという意味もありますが、逆に聖家族側から考えると、この贈り物を頂いて何とか生活の最初を過ごすことが出来たという事でもないかと思います。

  この公現という時は、この3人の学者たちは恐らく全財産を売って旅に出て来たのかもしれません。つまりもう家に帰ることが出来ないかもしれないという決意を持って、更にとても大きな贈り物を持って旅に出て来たからこそこの出来事を見ることが出来たのです。今の私たちにとって、救い主を示されたことは、与えられたと言いますが何も努力していません。それぞれの信仰の努力はあるかもしれませんが、いつの間にか私たちは受けています。聖家族は贈り物によって救われたという出来事のように、逆の立場で私たちもせめて聖家族に対する贈り物というものをどこかの誰かを通して捧げなくてはならないかも知れず、それをすることによって学者たちが見せた熱意を私たちも伝えることが出来るのではないでしょうか。

聖家族を助けた贈り物を、私たちも誰かを通して捧げていきたいと思います。