聖家族

福音朗読箇所 ルカ 2・41-52

[説教]

 

 今日の箇所は長い箇所の後半にあたります。前半の部分は預言者シメオンがマリアの事を予言したことについてです。「あなた自身も剣で刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」とシメオンはマリアに言いました。私たちが知っている通り、剣は物を切り、分ける道具です。何のためにシメオンは剣という言葉を使ったのでしょうか。それは、イエスの母という責任は簡単な責任ではないことを強調するためです。剣という言葉は、悲しみ、苦しみ、心の傷という意味であるのです。今回の出来事のイエスの姿が見えなくなったことは剣の一つにある心の傷です。

 エルサレムから戻った時、マリアとヨセフはイエスが神殿に残っておられたことを知りませんでした。イエスは親類と知人と一緒にいると思われていました。一日分の道のりを去ってから気付きました。ですから二人は心配でエルサレムに引き返さなければなりませんでした。それだけではなく、「何故私を探したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を知らなかったのですか」と言うイエスの答えも本当に衝撃的だったと思います。しかし、マリアはこれらのことを全て心に治めていました。最後までイエスの母という責任を忠実に果たしたのです。

 ヨセフも同じです。マリアと共に両親という責任を共に果たしたのです。ナザレからベツレヘムへの旅、そしてベツレヘムにいる間の出来事はヨセフの役割が多く示されていました。マリアの月が満ちたのを知った時、方々急いで泊まれる場所を探したのはヨセフだと思います。そして、ヘロデの脅迫を避けるために、マリアと幼子イエスをエジプトまで連れて行き、ヨセフは頑張りました。

 人間的に子供に対して両親の愛は限りないものです。子供のために両親は多くを犠牲にするはずです。時々両親は自分の事を無視して、全てを子供に集中させます。

 一昨年の12月に私の2番目の妹は身籠り9か月になりました。出産の予定の3週間前に、急に2歳の娘のお腹が痛くなり、入院しなければならなくなりました。しかし、二日経っても医師には痛みの原因を見つけることが出来ませんでした。娘は寝ることが出来ず、体が弱りました。その時、私の妹は自分の妊娠を気にせず、日夜自分の娘のそばにいたのです。それは母の愛の深さの現実であるのです。自分の子供の大変な状況を見る時、自分も苦しみました。子供の苦しみは母の苦しみでもあるのです。

 皆さん、ヨセフとマリアとイエスは何故、どんな理由で聖家族と呼ばれるのでしょうか。理由は二つあります。

 一つ目はイエスという救い主が彼らの中に、彼らと共に居られたからです。イエスの存在がその家族を聖別したのです。

 二つ目はヨセフとマリアの信仰のおかげです。私たちが知っている通り、ヨセフとマリアが神に選ばれたのは、彼らが忠実に信仰を持っていたからです。そして、今回の箇所に書いてある、エルサレムに上って過越し祭に参加した事は、ヨセフとマリアが信仰を持って神の律法を守るとの具体的な実例だと思います。その強い信仰のために、神がヨセフとマリアの家族を祝福したのです。

 ですから皆さん、私たちがヨセフとマリアの模範に従い、家族を神に任せるなら、私たちの家族も神に祝福されるはずです。ある意味で信仰によって、私たちの家族も聖家族と呼ばれているのです。しかし、私たちが覚えていなければならないことは聖家族は完璧な家族ではないという事です。どうしても全ての家族のメンバーは別々の性格、考え方を持っています。ヨセフとマリアとイエスの家族も聖家族と呼ばれても、色々な問題に直面したのです。私たちの家族も同じです。家族の中で問題が沢山あるはずです。しかし、ヨセフとマリアは問題に直面した時、忍耐して、神の助けに頼りました。私たちも問題に直面する時、忍耐して、互いに助け合い、理解し合い、神の助けに頼るべきです。

 皆さん、自分の家族の為に、共に神に祈りましょう。アーメン!