主の降誕 (日中)

福音朗読箇所 ヨハネ1・1-5,9-14

[説教]

 

 皆さん、イエス様の御誕生おめでとうございます。

 私の兄は結婚が遅くなって丁度4年前に甥が生まれました。甥が生まれたのをきっかけに私の家では多くの事が変わりました。大人ばかりだった家の雰囲気が明るくなって両親が前より若くなったようでした。そういう変化は私にも喜びでした。

 しかし甥が生まれてから母親の連絡が少なくなりました。それまでは一人で生きる息子が可哀相と思って、毎週電話をかけてきて「元気なの?食事はよくしているの?」といつも心配してくれていたのに、両親の気が甥に向いて行ってしまいました。少なくても1ヶ月に1回は私が好きなおかずを作って来てくれていた母親が、いつからか訪れなくなりました。なので私が電話をかけて聞いてみると、「今、孫を見守っているところだから後で電話しよう」と言って切るようになった事がかなりあります。甥が生まれる前には私の家で一番パワーがある存在は、神父として生きていく私だったのに、一言も話せない1才の甥がその影響力を全部奪っていきました。私は個人的にはそうなった状況が寂しかったのに、その赤ちゃんを通して喜んでいる家族の立場を考えてみれば、今まで私に集中されているその関心を諦めるのは当然ではないかと思いました。

 赤ちゃんという存在は事実、誰かの助けがなければいけないものです。世界で一番弱い存在で、ある程度時間が経たなければ自ら歩くもできない者です。だからこそ赤ちゃんは生まれる前から、ある程度成長するまで社会から保護されなければなりません。そういう理由で、バスにも電車にも妊婦のための席が備えているし、育児休暇も政府の政策としてなっているものです。彼らのために譲ってあげるのが私たちの常識です。彼らのために私の権利だけど喜んで諦めること、これこそ人間として守らなければならないマーナだと思います。

 それにも関わらずこの常識が守られなくなっておかしい誕生のストーリーが書かれてしまいました。馬小屋で生まれた赤ちゃん、想像してみてください。動物の鳴き声、臭い、寒さ、どれ一つ今生まれた赤ちゃんのためのだとは言えません。それではどうしてこういう状況が出来たのか。

 これについてルカはこのように伝えています。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。事実、場所がなかったというより出産をすぐ前に控えた妊婦を見たけれども誰も自分が泊まっている部屋を譲ってあげなかったからです。こういう理由でイエス様は毎年馬小屋で生まれるようになるのです。私たちが例えイエス様に直接に差し上げられないけど、再び来られるイエス様が馬小屋で生まれないように、またその御方の誕生を祝うためには私たちの辺りに一番弱くて貧しい人に私たちの目と心を向けばどうかと思います。そしてイエス様の御誕生を通してイエス様の祝福が皆さんの家庭と家族の上に豊かにあるように祈ってやみません。