待降節第3主日

福音朗読箇所 ルカ3・10-18

[説教]

 

  毎年、待降節の第2主日と第3主日は洗礼者ヨハネについての記述が読まれています。待降節という季節に合わせて、洗礼者ヨハネは主の道を準備するために来られた方であり、主を証しする為に来られた、そういうヨハネであるので、私たちはそのヨハネに関する福音を聞いてクリスマスを迎えるメッセージを自分なりに考えてくれたらと言う事になっています。

 新しい年になり、今年はルカの福音書から洗礼者ヨハネの記述が読まれていますが、先週の朗読はルカの特徴である歴史的事実を読みました。皇帝アウグストゥスの治世、ユダヤの総督がポンティオ・ピラトであった時、領主、ユダヤ教の指導者である大祭司など歴史的事実にある名前の権力者がいた時に洗礼者ヨハネが現れました。ルカはそういう事実があったと言う事をしっかり示そうしていますが、神の言葉が下ったのはそういう政治的な指導者にではなく、荒れ野にいる洗礼者ヨハネに下ったと言うところを前回読みました。そして、前回の福音から今回の福音の間に実は洗礼者ヨハネの厳しい言葉があります。あなたたちはマムシの子、悔い改めの実を結びなさい、と言い、既に斧が木の根元におかれていてあなた達はこんな状態にいるんですよと厳しい言葉を言っています。
 それに対して今回の福音があります。私たちはどうすれば良いのでしょうか。
 今回の福音をよく読むと、ヨハネが言っている事はそんなに難しいことを言っている訳では無いと思います。皆で分かち合えるようにしなさい、とか、あなたたちが自分にある立場を利用して色んなこと(悪い事)をするのではなく、もっと良いことをして下さい、など、そんなに難しいことを言っているのではないと思うのです。これは不思議に思います。ヨハネはあなたたちはこんな危ない状態であるからと厳しい事を言いつつ、ではどうしたら良いのかと訊ねたらこれくらいの事しか言っていません。本来であれば律法に立ち返りそれを守りなさいなど、もっと厳しい言葉を言って良いのに、そうではないのです。洗礼者ヨハネが伝えたいのは、当たり前の事なのに出来ていない事、ちゃんとしっかり分かち合うことを考えるように、そして自分がある立場にあるのであればそれを利用するのではなく、その立場によって人々が幸せになれるような仕方をして下さいと伝えています。簡単な事なのにそれが出来ていないので、ちゃんとその当たり前の事をしなさいとヨハネは伝えています。これはイエスも同じような事を伝えていますので、ヨハネのメッセージもイエスに繋がってくるものになっていると思います。
 ルカの描き方ですが、群衆を最初に持ってきていますが、後半は民衆と書いています。群衆と民を分けています。群衆は全ての人、その人達に語って、そして私達はどうすれば良いのかと少し心を変えてヨハネの方に向き直っている者に対して「民」という言葉を使っています。つまり、ルカはしっかりと分けて言葉に従って向かって来るかどうかを分けて考えようとしています。そこにある違いは何かと言うと、民衆はメシアを待ち望んでいて、という言葉があります。ユダヤの民が待ち望んでいたのは救い主でした。全ての人がこの約束された救い主を待ち望んでいたはずでしたが、残念ながらサドカイ派などの人たちは今ローマ帝国の元にあって大変だけれど、自分たちはそれでも良い生活を送っていたので、特に変わって欲しくないという気持ちがありました。しかし、貧しく大変な人たちはメシアを強く待ち望んでいました。
 今の私たちにとって、本当にメシアを待ち望んでいるかどうか、ここが問われているところではないでしょうか。もし、私たちも今の自分は適度なので良いと思っているか、それとも、苦しんでいる方達にメシアが到来する様に祈っていくのか、そこによって私たちも群衆か民か分けられて来ると思います。そして本当にメシアを待ち望みたいという思いがあれば、洗礼者ヨハネが言われた分かち合うこと、自分の立場を利用して悪いことをするのではなく、多くの人が幸せになれる様に動いて行けるように出来ればと思います。簡単な事ですが、やっていないからこうしなさいと言われています。私たちも出来ることを本当にしているかどうか、そしてクリスマスという時をどの様な思いで待っているのかを共に考えていきたいと思います。