待降節第2主日

福音朗読箇所 ルカ3・1-6

[説教]

 

 去年、私が日本へ来た時、私を迎えるために韓国人の神父お二人が空港まで来てくれました。一人の方は山口から、もう一人の方は広島から福岡まで来てくれました。それは勿論お二人の意志もあったかもしれませんが、広島教区をはじめ司教様の心配りだったと思います。そういう配慮のおかげで、日本の暮らしが初めてで心細くなっていた私に大きい慰めになりました。事実、私には日本へ来る前から心配な事が少なくなかったからです。福岡から広島まではどうやって行くのか?今すぐ日本語で挨拶さえ出来ないのにどうするのか?そういう心配は私を迎えに来た韓国人の神父様たちと会った途端、直ぐになくなりました。言葉が通じれば問題があっても、どうやっても解決になるためです。受け止められないことだからといっても言葉が通じれば十分理解するのが出来るからです。司教様が私のために韓国人の神父様たちを送ってくださったのは言葉が通じるという理由もあるけど、その神父様たちが私の顔を分かっていたからです。私を分かっているから空港で人を間違う恐れも道に迷う心配もありませんでした。

 誰かを迎える準備の一番目は皆さんは何だと思いますか。私はいらっしゃる方は誰か、まずその方について知ることだと思います。今日ヨハネはイエス様を迎える準備について叫んでいます。ヨハネが教えてくれたのも重要ですが、それに先立ていらっしゃるイエス様は誰かを分からなければなりません。

 イエス様が毎年、馬小屋で生まれる理由が正にこれです。王様が生まれたと言われるのにどの王様が馬小屋で生まれますか。この理由はメシアをなんと4000年も待っていたといっても、いざ誰もその事実を分からなかったからです。

 また、妊婦がいれば譲ってあげるのが常識です。バスでも電車でも、ましてトイレでも彼らのための席が備えています。でも月が満ちた聖母マリアという妊婦には誰も席を譲らなかったのです。これについてルカはこのように伝えます。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」もし宿屋に泊まっていたイスラエルの人々が宿屋の前で困っている彼女の体内にいらっしゃった方がメシアであるの事に気が付いたら、そうする事が出来たかと思います。私たちも同じように、いらっしゃるイエス様に気が付かなければ毎年、馬小屋で生まれるような悲劇は終わらないと思います。

 こういう悲劇を防ぐためにこの世の中で一番弱い姿でいらっしゃったイエス様の様子を思い出しながら、私たちも私たちの周りで一番弱い隣人へ私たちの目を向ければどうでしょうか。そうすればその中できっとイエス様を目にする事が出来るはずだと思います。