待降節第1主日

福音朗読個所 ルカ21・25-28、34-36

[説教]

 

 韓国の信者さんと食事のため食堂に行った時の事です。注文したメニューが出てくるまで待っている時に、全ての人の目が壁にかけてあるテレビに向いていました。韓国のほとんどの食堂には大きなテレビが店内の壁にかけてあります。なので珍しいことではありません。しかし、私が前に座っているのも関わらず、全ての人が夢中になってテレビを見ていました。どういう番組であんなにハマっているのかと思って見てみたら、その頃、韓国で流行っているドラマでした。その様子が面白かったので「面白いですか」と言ったら「神父様はそのドラマ、見ていないんですか」とおっしゃいました。「はい」と答えたら、こんなに面白いのに、どうして見ないのですかと言いました。それに加えて今からでも遅くないから見てねと言いました。

 しかし、その時、私がその人たちとそのドラマを通して共有できる話とか感情が全然沸かなかった理由は、私がそのドラマに興味が無かったからです。私が興味が無かった理由は、まさにそのドラマの初めてから見ていなかったからです。初めから見ていなかったから今いくら面白い場面が進んでいても、私にはただつまらなくてルーズなストリーに過ぎません。そのストリーの流れに初めから乗らなければいくら大事なことでも、結局、本人には何もならない事になります。だから、初めから展開されるストリーに集中しなければ、その大事さに構わず何もないことになります。

 私たちは先週、王であるキリストの主日で一年を終わらせて、今日から新しい一年を始めます。それに合わせてイエス様のストリーも新たに始まります。もちろん、このキリストという人物のストリーについて、私たちはもう知っています。それにも関わらずこのストリーに集中すべき理由は、このストリーの初めから心と精神を込めて一緒に進んでいかなければ私とは関係ないつまらないストリーになるかも知れないからです。

 去年、学校の日本人の先生たちが韓国人の私と会う度に、「愛の不時着見たことある?」と聞いて来ましたが、私は最後まで見ませんでした。一体それが何なの、それについて何故私に声を掛けるのかとずっと思ったことがあります。こういう私が最近韓国のドラマを見たのですが、私の予想と違って、過ぎてしまう時間がもったいないと感じられるほど集中して見ました。最初から最後まではっきり見たから、それについて話題が出ても今は私もしたい話が出来て、誰かと共有できる感情も出来ます。

 つまり、私たちも今日から始まる救いの神秘に集中すればその相手が例え人間だからと言っても少しでも分かち合える話が出来るかもしれません。それを超えて物語の主人公のイエス様と分かち合える何かが出来れば、それ以上良いものはないと思います。そうなれば、いつも私とは遠くいらっしゃる神様、知らなかったイエス様の心に少しでも近づいて行くのが出来るのではないかと思います。そのために今日から始まる救いの神秘に耳を傾けましょう。