年間第30主日

福音朗読箇所 マルコ10・46-52

[説教]

 

 目を持っていても見えないのは言葉で表せないほどの大きい苦しみです。私たちは例え盲人でなくても私は個人的にこの事実に共感できるのが、今、目を持っていてもはっきり見えないことです。

 代表的な事が一人で食堂で食事をする時です。ほとんどの食堂は親切にメニューに写真が貼っているので困難なく注文ができます。しかしそうではない食堂もあります。漢字ばかりのメニューをもらう場合は「どうすればいいか、ごめんなさいと言って帰って行くか」と悩むようになります。

 去年、日本語が上手になる気配が全然なかったのですが、一人で居酒屋に行ってみようかと思いました。それも日本語の勉強の一部だと思ったからです。行くついでに食べたかった焼き鳥も食べて来ようと思いました。しかし私が読めるメニューはあまりありませんでした。ひらがなで書いてあるネギ、玉ねぎ、カタカナで書いてあるトマト、アスパラガス。私が読めるメニューがそれだけだったのでその野菜だけ二本ずつ頼んで食べました。多分その店員たちは私がベジタリアンだと考えたかもしれません。鶏肉が食べたかったのに野菜だけ食べなければならないように、目を持っていても見られないのは大きい悲しみです。

 こんな私が可哀相だと考えたある韓国人の神父様が、広島に住んでいた私を岡山に誘いました。その時、私は車がなかったので初めて高速バスに乗って岡山という所に行く事にしました。問題は私が広島バスセンターで切符を買う時、職員が私に何か聞いているのに全然聞き取れなかったという事です。今に至って考えてみればその時、職員が話したのは岡山駅西口バスセンターまで行くのか、それとも岡山インターまで行くのかと聞いていたようです。とにかく「岡山、岡山お願いします」と話して切符を買いました。2時間くらい走ったバスがついに岡山と書いてあるどこかに止まって、乗客が皆降りるのを見て私も一緒に降りました。その時、私は大変驚きました。広島に比べて岡山は少し田舎の感じだと聞いたのですが、これほどだったかと思いました。周りに何も、コンビニさえない。そう考えていたのですが迎えに来ると言ってくれていた方が全然見えませんでした。電話をかけて話したら私が降りたバスセンターは岡山インターバスセンターでした。結局その方が車で迎えに来てくれました。こんなに目が遭って、はっきり見られないのは、本人は勿論、他人も大変になると言う事です。

 今日、福音に面白い場面があります。「私を憐んでください」と叫んだ盲人に多くの人々はどうしましたか。叱りつけて黙らせようとしました。そうするのがイエス様を邪魔から防ぐ事だと思ったからです。でもその人々は直ぐ「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と話します。盲人について態度が急に変わりました。事実はこの人々も目を持っていても何を見なければならないのかを分からなかったからです。前は見えなかったから他人に苦しみと傷付けたのに、今ははっきり見えるようになって叱った人を逆に応援しています。こんなによく見えないのは本人も他人も大変になるが、よく見えるようになれば本人も他人も神様の恵みに至るようになるのを忘れてはならないと思います。それゆえ今日のミサの中で盲人を応援するようになった人々と同じように私たちにも見える目をくださるように祈りましょう。