年間第29主日

聖書朗読箇所 マルコ10・35-45

[説教]

 

 皆さん、4週間前の福音を覚えているでしょうか。それは「自分の中で誰が一番偉いか」と弟子たちは互いに議論したことについて話しました。その時、一番偉い人は自分を低くして、人に仕える者であるとイエスは教えられました。しかし、弟子たちはイエスのその教えを理解することが出来なかったようです。今回の福音に一番偉い者になりたいという望みが、まだ弟子たちの心の中に残っていると書いてあります。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは「栄光をお受けになるとき、二人を右と左に座らせてくださるように」とイエスに願いました。

 それは難しい願いです。何故かと言うとイエスにとってすべての弟子たちは平等であるからです。確かに特別な機会でヤコブとヨハネとペトロだけがイエスによく誘われましたが、イエスがそのようにしたのは3人が他の弟子たちより偉いからだという理由ではなかったのです。私たちが知っている通り、3人は一番最初にイエスに呼びかけられたのです。ですから3人はイエスによく信頼されたのは当たり前だと思います。しかし、その信頼は特権的な地位ではないとイエスは考えました。その考えに基づいて、今回の箇所の中でヤコブとヨハネの願いを叶えるより、偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は皆の僕になるはずだとイエスは教えられました。つまり弟子たちの集いとは、社会的な団体と違って、愛に基づいて建てられた集いであるのです。ですから地位を目指すより、皆が互いに助け合い、愛し合い、励まし合い、仕えるべきです。今回の箇所の中でイエスご自身は弟子たちを教えるだけではなく、模範を表したと書いてあります。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」とイエスははっきり言われました。

 そして、イエスの栄光は世の中ではなく、世の後という神の国で得られるのです。ですから、神の国でイエスの右と左に誰が座るかはイエスが決める事ではなく、父である神が決める事なのです。世の中で生きている弟子たちは特権的な地位を考えるより、神の国に入ることが出来るように努力しなけらばならないとイエスは望んでいるのです。何故かというと、神の国に入るのは簡単ではないからです。相応しい人だけが神の国に入ることが出来ます。

 では、相応しい人になるためにはどうすれば良いのでしょうか。今日イエスは明らかに教えてくださいました。。皆が自分を低くして、互いに仕えるべきです。高ぶる者は神の国を受け継ぐことが出来ません。実はイエスは偉くなりたいという考えに反対はしませんでした。イエスご自身もペトロを教会の土台にしました。つまり、支配者という役割は本当に大切ですが、イエスは支配者の役割に対して新しい提案をしました。良い支配者は皆に仕える者であるとイエスは言われました。私たちの場合は支配者と言う役割を持っていないかもしれませんが、自分を低くして、皆に仕えるという教えは私たちの生き方への提案として考えたら良いでしょう。

 教会の中、家族の中、皆が互いに仕え合えば、良い教会と良い家族を作る事が出来るのではないでしょうか。それは簡単ではないかもしれませんが、神様の導きと助けによって行うことが出来ると思います。アーメン!