年間第28主日

聖書朗読箇所 マルコ10・17-30

[説教]

 

  私は今日の福音に出る針の穴という表現が、何か可能性を表す言葉だと思いました。皆さんも私と同じだと思います。

 お金持ちが神の国に入るのは難しいどころではなく、ほぼ不可能に近いという表現です。それでは、どの位のお金を持っている人がお金持ちというのでしょうか。100万円、1000万円?イエス様がこの位持っている人がお金持ちだとはっきり教えてくださればそれに合わせて神の国に行く準備が出来るはずなのに、いくらまでがお金持ちかを教えてくださいませんでした。

 皆さんはどの位の財産を持っていますか。いいえ、自らお金持ちだと考える方がいらっしゃいますか。最近、韓国では「あなたは自分でお金持ちだと思いますか」という面白いアンケートを行ったことがあります。その結果1000万円を持っている人も1億円の人も自らお金持ちだと思わなかったということです。それでは自らお金持ちではないと思ったら神の国に入ることが出来るという結論に至るようになります。こういう複雑な考えに至るようになるのは私たちが「針の穴」という意味とその背景を分からないからです。

 イエス様がいらっしゃった時のエルサレム城には色んな門がありました。朝から夕方までその門を開けておいて、夜になるとその門を全部閉めていました。しかし旅行者や商人たちが夜に到着することもありました。それではどうしますか。想像してみてください。高さは10m、幅は7mになる大きい門を城に入る人が居る度に開けたり閉めたりすることが出来ますか。それは無理です。なのでそのような人々のために、城の門に一人くらいが入れる小さい門を作っておきました。人々は、その小さい門を通って行ったり来たり人たちを見て「あ、あの人、針の穴の門を過ぎていく」と話しました。

 今日イエス様がおっしゃた針の穴は正にそれを示します。それではお金持ちはどうしてその門に入ることが出来ないのか。夜遅く、荷物をたくさん乗せたラクダを連れてエルサレム城に来た商人は自分がどの位の財産を持って来たかに構わずそれは全部外において一人で入らなければなりません。皆さんがその商人なら外においたラクダの群れとその上に乗せている荷物を心配せずに入ることが出来ますか。それは無理です。私からして無理だと思います。

 神の国もこれと同じです。私たちが生きていく間にどの位の富を積んだとしてもそれはこの世に全部置かなければならないのです。しかし考えなければならないのは私たちがこの世においた財産は私が使えなくても私の子孫が使えるから安心だと考えてはいけません。それについてはイエス様がはっきり教えてくださいました。貧しい人に施しなさい。そうしなければ私たちは一人しか入れない針の穴の門の前に立っているラクダになるかもしれないということです。

 もし今回の福音を聞いて、お金持ちはどの位の財産を持っている人か、それに集中していた方がいらっしゃれば、その考えに留まるのはどうかと思います。むしろ私たちは針の穴の門の前にいる商人になるかそれともラクダになるかを考えてみたらどうかと思います。