年間第27主日

聖書朗読箇所 マルコ10・2-16

[説教]

 

 教会での結婚式を望まれる方達に、教会での結婚観という事をしっかりお話しする事になります。

 今日の第1朗読(創世記2・18-24)で聞いて頂いた様に、教会での結婚観の一つは「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」つまり男と女を造ったというのは、彼に合う助ける者と書かれています。昔は、「彼に相応しい助ける者」と言う訳になっていました。原文では「合う」「向き合う」(ケネグドー エーゼル)、向き合う相手として基本的にあります。つまり、男性の後ろを歩くとか、助けて何か補填するというのではなく、完全に同じ者として向き合って生きていくというのが聖書が描く男性と女性の関係だという事を言っています。

 残念ながら、ユダヤの社会では全体的に男性社会だったので、女性に対して発言の権利などなく、やはり後ろで支える様な役割ばかりだった様です。

 そしてもう一つが「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というこの言葉の通りに教会では離婚という考え方がないという事をお話しします。結婚は神様が結び合わせてくださったもので、人がどうすることも出来ないという事を話します。

 そこで今回の福音の離縁状にも繋がってくるのですが、残念ながらこの福音に書かれている様に、向かい合う存在と言いながら、女性が独りでは生きていけない社会的状況の中で、女性を助けるために、離縁状というものがあれば別の人と結婚出来るという法があったので、仕方なくそういう状況にしたという事を描いています。しかし、基本的には神様が結び合わせてくださったものを別ける事は出来ないという事が今もある考え方です。もちろん、現実の中でそれは難しい事もあるかもしれません。教会法上で神様が結び合わせてくださったものは別ける事が出来ないので、それが結婚ではなかった、という事で手続きしていくという事をしています。幸せに生きる事は大切な事です。それが出来ないという時にはそういう対応をするという状況になっています。

 しかし、このような結婚観と言うのを大事にして教会の中で結婚式をしてもらう事は変わっていない現状です。

 マルコの福音書がずっと読まれてきた中で、1回目の受難と復活の予告があり、2回目の受難と復活の予告も見てきましたが、これから3回目の受難と復活の予告があるちょうどその間にこの10章は書かれています。10章の第1節には、イエスはそこを立ち去られてユダヤ地方やヨルダン川の向こう側に行かれたことが書かれています。そして今回の話に繋がっています。つまり、ここから最後の3回目の予告があった後はすぐにエルサレムに向かうので、エルサレムに向かう最後の旅の中でこの部分が語られているという事になります。そして今回の所だけではなく、そこに書かれている事は全て、イエスは何者なのか、イエスはどういう人なのかという事と、弟子たちはどういう者であるべきなのかという事を語っている中での話です。

 今回の話は、律法に対してどの様に対応するのかを教えるために、この離縁状についての事をマルコは取り上げています。ファリサイ派の人達は、律法の掟は大事なので離縁してはいけないとイエスは言うだろうと、しかし律法にはこう書いているではないかと言葉尻を捉えて色んな事を皆の前でイエスに恥をかかせようとしたのかもしれません。けれども、イエスが伝えたかったのは、元々の掟はどういう風になっているのか、律法上細かい掟があり、それを破らず守りさえすれば良いと生きている人たちに向かって、弟子であるためにはそんな小さな事ではなく、元々の掟はどうなのか、何のためにこれがあるのかという事をしっかり心に留める様にとイエスは言いたかったのではないでしょうか。

 私たちの中で都合の良いように、今掟を破っていないから良いではないかとか、この程度なら良いではないかなどと考える事があると思います。けれども、基本的な掟は何でしょうか。キリスト教が言う掟は、「互いに愛し合いなさい」という掟だけなのです。それに繋がってくる事を私たちもしっかり考えていきたいと思います。