年間第26主日

聖書朗読箇所 マルコ9・38-43,45,47-48

[説教]

 

 私が日本に来て一番先にしたのは日本語学校の登録でした。しかし私の日本への派遣は急に決まったので私は日本語について何も準備出来ないまま来日しました。日本語の学校では少なくともN4のレベルを求めたのに、私は自分の名前ですらカタカナで書けませんでした。その時、私の横で通訳をしていてくれた韓国人の後輩神父様がシム神父は授業が始まったら十分についていけると学校側に願ったからやっと入学が出来ました。その全ての状況を隣で見た私は誰にも迷惑をかけたくなかったので、学校が求めた日本語の資格を取るために頑張りました。とりあえずN4を取ってそれからN3、N2、最後はN1を目指して頑張って勉強しようと思いました。

 しかし、私が日本語のレベルが上がる事とは別に日本人と話す時に聞き取れないのは相変わらずでした。もっとレベルが上がればきっと聞き取れられるはずだと思いながら頑張っています。正直に言えば今も学校ではN1を求めています。なので今、私が日本語を学ぶ理由はN1という日本語の資格になりました。

 そんな私を横で見守った後輩の神父様が私に話したのが「先輩、あなたがどうして日本語を習っているのかそれを忘れないでください」という事でした。私はその言葉を聞いて新たに気付きました。私は資格を取ることに集中していて、すべき事に集中しなければならない事、私はそれを忘れていたのです。

 不思議な事は、私の後輩の神父様によると、彼は日本語の資格が全然ないそうです。それにもかかわらず彼は誰よりも上手に話しながら自分に預けられた事に忠実しています。そんな彼に対して、あなたは日本語の資格が全然ないのに何故ミサをするの?何故説教をするのかと訊ねる人はいないはずです。それは資格と関係なく、彼が今神様の仕事をしている事を私たちが分かっているからです。

 今日イエス様がおっしゃったのも同じだと思います。私たちは資格が重要だと思いますが、実は資格に構わず私たちが何をしているのかが一番重要だとういことを忘れてはなりません。

 その事実は、例えキリスト教徒ではないけれどキリスト教の精神を守って生きていく人がいるということですし、キリスト教徒だけど、その人生をよく見ると全然模範にない人生もあるという事です。私たちは今まで生きてきたその内容で判断されるという事を忘れてはいけません。

 いつもその内容に集中して、今私たちがどんな様子でいるかを見ないで何を行っているのかを振り返って見るイエス様の弟子たちになればどうかと思います。