年間第25主日

福音朗読箇所 マルコ9・30-37

[説教]

 

 皆さん、前回の福音箇所を覚えていますか。前回の福音はペトロの信仰告白と最初の受難告知について話していました。受難告知については、もう一度今日の箇所の前半に書かれています。

 そのことについてこう書いてあります。「弟子たちはこの言葉の意味(受難告知)が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と。それは何故でしょうか。イエス様に叱られないように、という理由です。前回の福音では、イエス様をファリサイ派の人々と長老たちから強く守ろうと考えていたペトロはイエス様にひどく叱られました。ペトロはイエス様に、神のことを思わず、人間のことを思っているからだと言われました。ですから、そのイエス様の激しい怒りを自分の目で見た弟子たちは叱られないように、分からなくてもその受難告知の意味を尋ねることが出来なかったのです。

 そして、今回の箇所の後半は、弟子たちの中で誰が一番偉いかという議論が起こります。長時間イエス様と共に生き、生活している弟子たちは、自分たちの中でイエス様に一番信頼される人は必ず居るはずだと思い込んでいました。何故そのような考えが出てきたのでしょうか。

 実は、イエス様の時代に律法という基準で人間の価値が計られていました。一人前の人間として評価されるためには律法を学び、律法を忠実に守ることが必要でした。そのため、律法学者たちとファリサイ派の人々は律法をよく知っているために社会の中で身分が高いグループとして見られていたのです。一般の人と同様に弟子たちはその律法の教育を受けることが出来ませんでしたが、一番偉い人になりたいと言う考えは彼らの頭に刻まれているのです。

 しかし、大切なのはその議論を聞いていたイエス様の反応です。前回と違って、叱るよりイエス様は弟子たちを優しく導いたのです。一番偉い者とは、全ての人の後になり、全ての人に仕える者であるとイエス様は言われました。その教えを簡単に理解出来る様に、イエス様は子供を例に挙げました。子供は社会的に力がなく、愛しか望まないのです。ですから、偉い者とは子供に対しての愛のように、他の人を受け入れるものなのです。つまり、偉い人は支配力を表すより、愛を込めて人々に仕えるべきです。今回のヤコブの言葉の通り、偉い者とは平和を実現して、何よりも純真で、更に温和で、優しく、従順なものであるのです。確かにイエス様ご自身はそのように生きていたのです。イエス様は神の子であるにも関わらず、自分を低くして、人々に仕えました。イエス様は人々に褒められるという事を望まず、むしろ自分の生き方が人々の模範となるように望んでおられました。

 皆さん、教会は一つの団体として歩むことが出来るように、信者の協力が必要です。そのために教会の中で色々な役割が設定されています。しかし、時々ある教会では弟子たちのように世俗的な考えを持っている人々が居ます。そのような人は責任と役割を果たすのは一番偉い人になるためとか、人々に褒められるため、と思い込んでいたりします。あるいは、ある人は教会の中で自分のグループを作り、他のグループと働かない。あるいは、大きなお金を施しましたが、目的は教会の中で力を得るため。しかし、それは正しくありません。私たちは教会の中で色々役割と責任を果たすのは神様に仕えるためなのです。そのために心からの奉仕が大切です。心を尽くして、愛を尽くして、仕えるという事なのです。

 社会の中で一番偉いものになるという考えは当たり前かもしれません。しかし、その考えが強すぎると危険です。何故なら、その考えは犯罪の原因となることもあるからです。現実としては悪い方法で力を得る人は少なくありません。例えば、インドネシアでは一般選挙と総選挙の前、多くの立候補者は人々に裏金を配りました。選ばれたら、そのお金を取り戻すために汚職をするはずです。日本にもそのような事件がありました(去年広島での選挙)

 皆さん、教会と社会の中で人々に心から奉仕を捧げることが出来るように、イエス様の教えと模範に従いましょう。アーメン