年間第23主日

福音朗読箇所 マルコ7・31-37

[説教]

 

 先週からB年の特徴であるマルコの福音書に戻ってきました。8月いっぱい読まれたヨハネの福音書を振り返ると、パンの奇跡と言われる5000人の人たちが満腹したところから始まり、6章全体が読まれていきました。そこには、イエスはいのちのパンであるという事が語られ、それを受け入れるかどうかという事を見ていきました。そして、イエスを最終的にどこかの宗教的指導者とか、預言者などと言うレベルではなく、イエスはメシアであり、いのちのパンであると言う事を受け入れられるかどうかを人々に提示した部分でした。
 結局多くの人は「そんなひどい話は聞いていられるか」、と離れていきましたが、弟子たちは「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。誰のところに行きましょうか」と分かれて行ったところを見てきました。
 今回のマルコの福音書も、これに続いて同じような選びに続いて行くと言う箇所になっています。と言うのは、今回読まれたのはマルコの7章の最後のところですが、実はマルコも6章30節からパンの奇跡が書かれています。いわゆる5000人の人が満腹したと言うパンの奇跡があって、その他にいくつかのしるし(奇跡)をなさり、さらにファリサイ派の人との論争があった後に今回の福音、この耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて癒したと言う話につながります。さらにこの後の8章に4000人の人を満腹させたと言う話が同じように出てきます。その話の後にまた論争があって最後に今度は目の見えない人が見えるようになったと言う話を持ってきています。
 つまり、今回の部分とその後に繋がるって来る同じパターンがあった後に来週の主日に読まれる福音がきます。来週の福音は「あなた方は私を何者だと言っているのか」とペトロに信仰告白を求める場面になっています。ここも最終的に大切なところです。他の人は何と言っているのか、しかもあなた方は私を何者だと言うのか、とペトロに答えさせて、その後に受難と復活のの告知をして行きます。
 第1朗読(イザヤ書35・4−7a)にあった神の国の実現「目の見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」、この大事なところがこの同じパターンの最後に持って来られています。しかもこの二つの共通点は、その本人がと言うのではなく、「人々が」イエスのもとへ連れてきています。つまり、神の国が実現すると言う人たちが自分で動いたのではなく、人々がイエスと出会わせるために連れてきたと言う大きな特徴があります。そしてイエスが天を仰ぎ深く息をつき、と言う神様との祈りの中でそれが実現していくと言うことです。
 ここが大切なところです。この後に「あなたは私を何者だと言うのか」と言う選びに向かって行きます。
 人々が連れて行き、イエスに出会わせてそこから神の国が始まると言うことを、この状況を見てあなた方はどう選んでいくのかと言うことを私たちに問い掛けているように思います。
 最終的に多くの人が離れて行くことになってしまいましたが、やはり神の国の実現のためには、誰かがイエスのもとに連れて行き、イエスと出会わせると言う必要があります。ペトロも良く分からなかったのに受け入れて行ったことにより、その後ペトロが弟子の代表として教会を形作って行くことになります。
 私たちもそれに繋がっている筈です。分からなくて、全て受け入れていくことが出来ないかもしれません。しかし、最後に受け入れて行くかどうかは信仰の問題です。頭で考えたり何かと分かる問題ではありません。しかし、それを受け入れたのであれば、どうか私たちは自分だけではなく、人々をイエスに出会わせると言う役割をして行かなくてはならないと言う事を、今回の福音の中から今一度一緒に考えて行きたいと思います。