年間第22主日

聖書朗読箇所 マルコ7・1-8,14-15,21-23

[説教]

 

 今日のことば「言い伝え」についてお話したいと思います。


 皆さん、掟について説明することは難しいです。これが神の掟です、とか、これが教会の掟です、とか言うことは簡単です。しかし,その掟がどうして掟として言い伝えられるようになったのかを理解することは、なかなか骨の折れることです。掟として言い伝えられるからには、何か意味があるはずです。
 イエスの時代のことを考えてみましょう。

 ユダヤ人にとっての聖書とは、私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。その聖書の中でも、モーセ五書と呼ばれる最初の五つの書物、つまり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記と申命記とを合わせて、律法の書と呼んでいました。
 聖害に書かれた掟だけでも数え切れないぐらいあるのに、更に、掟を守るための言い伝えが沢山作られていました。だから、専門家として勉強しない限り、細かい点については到底分かりませんでした。
 律法学者にとって、昔の人の言い伝えを守ることは、すなわち律法を守るこでした。しかし、律法学者のように専門に勉強したことのない人々にとっては、到底守ることの出来ない言い伝えでした。しかし、律法学者は、皆の人々に言い伝えを守るように圧カをかけていたのです。
 皆さん、今の私たちにとって、言い伝えに代わるものとして習慣があります。習慣は、場所や時代によってそれぞれ違うものです。
 これは習慣だから必ず守らなくてはいけないのだという考え方は、イエスの時代の律法学者と同じ考えになってしまいます。それでは、イエスが苦労して活動したことが無意味になってしまいます。
 教会の中でも、習慣だからということで、やたらに沢山の言い伝えがあります。しかも、それを守らないと信者ではないと思い込んでいる人も多くいます。
 代々、昔の人の言い伝えとして守られてきたことは、日常生活にかかせないものです。だからと言って、その言い伝えだけを守っていれば良いとは言えません。できれば、その言い伝えが守られてきた意味を理解し、もし、今の時代に合わないものなら、その習慣を変えていく努力もしなくてはなりません。

 習慣は、その時代の人々の努力によって作られてきたものです。アーメン!