年間第18主日

聖書朗読箇所 ヨハネ6・24−35
[説教]

 今年はB年としてマルコによる福音が読まれていますが、B年の特徴としてこの8月の約1ヶ月間だけヨハネの福音書が読まれて行きます。
 ヨハネ福音書の特徴は、最後の晩餐で弟子たちの足を洗う話があり、他の福音書のように聖体制定句がありません。しかし、今日読まれた6章でイエスは命のパンであると語って行く箇所があります。
 「私が命のパンである」と今回の福音の最後にあります。イエスそのものが、実はあなた方に命を与えるパンなのだという話が続いて行きます。
 しかし、うまく会話が絡まって行きません。特に「私が命のパンである」とか「私の肉を食べ、私の血を飲むものは」となっていくので、そんなひどい話は聞いていられるかと言い、多くの人々が離れ去って行ったということになって行きます。弟子のペトロに対して「あなたも離れて行きたいか」と問うと「私はどこに行きましょうか、あなたは永遠の命の言葉を持っておられる」というように二つに分かれるということになってゆきます。信じない者として「そんなひどい話は聞いていられない」と離れて行くもの、しかし、弟子たちの中の分からなくてもついて行くもの、というようにヨハネの6章はとても大切な箇所になっています。
 どのような人がこの信仰に向かってついて行けるか行けないか、という事をしっかり見極めるところになっています。血を飲むなどという律法上無理だと言われていることなのに、「私の血を飲み私の肉を食べ」などという話をする訳ですからついていけなくなる人がいるのも当然のことだと思います。しかし、それでもしっかり信じていかないとこの本当の所に向かっていけないということも確かだと思います。
 今回の福音の中から特に見ることができるのは、実は同じ言葉が続いています。群衆が言ったある言葉をイエスが受けて、さらにそれをまた群衆に投げかけるという風に、同じ言葉を繰り返して行くというのが使われています。しかし、そんなに丁寧に何度も話していても通じないという事をこの福音では伝えています。私達も色々な人と話してしっかりと細かい事を話しても決して通じることがなかったという経験があると思います。つまり、折角細かく伝えても、それは信じがたいとか受け入れられないと言われ通じないことがあるでしょう。確かにイエスの言葉もそんな風に受け入れられないという話もあったかもしれません。しかし、その前に「しるし」というのを見ています。そのしるしを見ているのにそのしるしではない、自分がお腹いっぱいになれるという現世利益だけを求めていたユダヤ人たちに比べて、イエスのいう言葉の中にある神の業を見ることが出来なかったということがうまくいかなかったという事になります。
 私たちも同じように小さな言葉をやり取りしますが、そういうときに自分の中にある分かるものを大切にするのか、あるいは言われた事を少しでも理解しようとするのかによって変わってくるのではないでしょうか。
 イエスの言われる言葉は確かに難しいこともあります。今の私たちや当時の人たちにとってもとても受け入れられないということが続いたのかも知れません。しかし、そこに留まっているようでは分からないものが増えていくだけです。私たちもそういう時にに、神さまが求められているものは何なのか、という思いで色々な事に心を向けていけたらと思います。