年間第15主日

聖書朗読箇所 マルコ6・7−13
[説教]

 今回の福音は、イエスが12人の弟子たちを2人ずつ組にして宣教させに行くと言う話です。
 「12人を呼び寄せ、2人ずつ組みにして遣わす事にされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け」と言う中に「呼び寄せる」「遣わす事を始められた」「権能を与えた」と言う3つの動詞があります。これらの動詞の全ての主語はイエスです。しかし、3つともイエスが行われた動詞なのですが、ギリシャ語の原文では全て時制が違うそうです。特に2番目の「遣わすことを始められた」と言うのは、そこでいよいよ本当に始められたと言うことを強く表す言葉を使っているそうです。そしてその後に権能を与えられたと言うところは、内容を詳しく伝えると共に繰り返し(2人ずつ別に)と言う細かいニュアンスがあるそうです。
 そして最後にある「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と言うところにも「宣教した」「悪霊を追い出す」「油を塗る」「病人をいやす」と言う4つの動詞があります。それも時制が違うそうです。宣教したと言うことは、先に書いたイエスが色々始められたと言うことと同じように、ここもまさに弟子たちが始めたと言う強いニュアンスがあるそうです。そして悪霊を追い出し、油を塗る、病人をいやすと言うことは、細かくそう言うことをして行くのだと言うことを表していると言われています。
 ここではイエスが弟子たちを宣教に遣わしたのに、宣教に遣わす内容は書かれていません。書いてあるのは状況を表して、弟子たちの行動を示していることです。そしてその部分が大切だということになります。
 ヨハネ福音書にも書かれていますが、「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを知るようになる」とあります。つまり、宣教と言うものは内容ではなく、その行いを示した時に、それがイエスの弟子であることが分かるようになるのではないかと言われています。
 私達も何を伝えなくてはならないのか、イエスの事を伝えるために考えることは難しいかもしれませんが、生き方そのものをしっかりと伝えて行く時に、イエスの弟子である事を知ってもらえることができると言うのは確かだと思います。
 私達も1人ずつ別個にこう言う事を行うように言われているのかもしれません。それをしっかり行動に示すことが出来れば、宣教という事に繋がってくるのではないでしょうか。