年間第14主日

福音朗読箇所 マルコ6・1−6
[説教]

 私たちも、子どもの頃の姿や大人になった時の成長ぶりや違う姿を見て驚いたり驚かれたりすることがあると思います。
 今回の福音もイエスを見た時に驚いたと言う話です。その驚きは良い驚きもあるでしょうし、ネガティブな驚きの両方があったと思います。それをどのように捉えるかと言う言葉が出てきます。
 「この人はこのようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこの様な奇跡はいったい何か」と言うように、どこからこのようなものが出てきたのか、そしてそれは何なのかという、由来と本質と言うことを考えることがとても大切なことになってきます。それを探すことがとても大事なことでここから今後の思いに導かれて行くことになるでしょう。
 このイエスに対する見方は、ここで由来や本質をしっかり考えればイエスが神のもとから来たと言うことが分かるはずなのですが、そうではなく、つまずいたと言うことになってしまった驚きは、自分の都合の良いように向かって行ってしまったからなのです。この人は大工ではないか、私たちがよく知っている一人の人ではないかと。自分の都合の良いようにこの人(イエス)、この出来事を捉えようとするとこうなってしまうと言うことです。偶像礼拝とは、自分の都合の良い「神像」を作ってしまうことです。それと同じようになってしまっているのではないでしょうか。
 そして残念ながらそれはどうなってしまうのかと言うと、「そのほかには何も奇跡を行うことがお出来にならなかった」と書いてあります。ですから結局自分がその様なことを思っていく限りは何も奇跡は行われない、何も神の業を行うことはできないと言うことになっていきます。
 私たちにもそれは思い当たることがあるのではないでしょうか。私たちの中で行われるいろんな出来事をしっかり見る時に、それはどこから来たのか、これは何なのかという由来と本質をしっかり見ているでしょうか。これは神さまの業ではないか、神さまはこう考えているのではないかということを自分たちはしっかり考えているでしょうか。そしてそれをしっかり見て、その生き方に自分が賛同した時に、もしかしたら不思議なことが起こっているということではないでしょうか。何も起こらないとか、どんなに頑張ってもどうにもならないと言う時には、もしかしたら私たちも自分に都合の良い思いの中に、それを行なってしまっているのかもしれません。
 「そのほかには何も奇跡を行うことがお出来にならなかった」と言うことを大事にしたいと思います。
 そこに何があるのか私たちはしっかり見て、それを考え、祈り、そしてそこに一緒に自分も賛同していった時に、より神さまの働かれる力を私たちも一緒になって感じることが出来るのではないかと思います。