年間第13主日

福音朗読箇所 マルコ5・21-43

[説教]

 

 前回の福音「マルコ4・35-41」ではイエスが弟子たちを叱ったことについてでした。ある日、舟で向こう岸に行こうとしました。しかし、途中強い風が吹いて舟が水浸しになってしまいました。その時弟子たちはその時に不安になりました。しかし、イエスは舟の中で寝ていました。その危険が気にならなかったみたいです。ですから弟子たちは大声でイエスに「先生、私たちが溺れても構わないのですか」と叫びました。イエスは起きて湖を静めて、弟子たちに「あなたは何故怖がるのか。まだ信じていないのか」と叱りました。弟子たちは毎日イエスのそばにいて、イエスの全ての奇跡を自分の目で見たにもかかわらず、まだ信じていなかったために、イエスはとても怒ったのです。

 しかし、人間的に考えると弟子たちの不安は当たり前です。どれくらい言葉で信仰を告白してもあり得ない状況の中で私たちは疑うという事もあるでしょう。

 ですから、イエスの怒りは実は励ましの言葉として見られるべきだと思います。何故かというと、両親もそのようにするでしょう。子供の善のために両親は子供を叱った。

 今回の福音は、二人の人の信仰について話しています。彼らはイエスのことを全く知りませんでした。人々からの話でイエスのことを知るようになりました。

 出来事としては、二つに分かれています。

 一つ目は12年間も出血が止まらない女の話です。彼女は医者に払うために全財産を使ってしまったのに、状況は悪くなるだけでした。ところがイエスのことを知り、心の中に希望が湧いてきました。大切なのは彼女は直接イエスに出会わなくて、秘かにイエスの服に触ったということなのです。それには理由があります。その時、出血が止まらない病気を患っている人は重い皮膚病を患っている人と同じように汚れた者として呼ばれていたからです。律法によってその様な病気を持つ人は社会から追い出されていました。ですから人々に迷惑をかけないように彼女は秘かにイエスの服を触りました。実は彼女は肉体的だけではなく経済的にも精神的にもとても苦しんでいましたが、イエスの助けによって癒されます。

 私たちの教会の中でも自分の苦しみを他人に見せず、秘かに苦しんでいる人が沢山いるかもしれません。ですから私たちは言葉に気を付けなければなりません。相手の状況が全部分からないからです。出来る限り教会の中で互いに助け合い、愛し合い、励まし合わなければなりません。逆に裁きや差別なども避けましょう。

 二つ目の出来事はヤイロの娘の癒しなのです。しかし、イエスがヤイロの家に行く途中に出血の止まらない女のために立ち止まったことに、ヤイロの反応はどうなると思いますか。実は人間的に考えると、その女に腹を立てたはずです。何故かというと、早くイエスを自分の家に連れて行けば娘の命が救われるはずだからです。しかし、ヤイロはそのような人ではありませんでした。その女の苦しみを理解しながら、自分の苦しみを持ちました。その女を咎めませんでした。ですから、深く考えるとイエスはヤイロを助けたのは、ヤイロの信仰だけではなく、彼の性格、生き方に感動したからです。

 ヤイロの話はどういう風に私たちは自分の信仰を生かすべきかという模範を示しています。

 私たちは時々ヤイロのような経験をするかもしれません。願いが叶うまで時間がかかり、あるいは全然叶えられなかったかもしれません。しかし、ヤイロのように信仰は諦めてはなりません。

 祈る時、すぐに叶えられると望まないでください。ヤイロのようにすべて神様に任せましょう。私たちの願いを神様がいつ叶えて、そしてどうするかは私たちにはわかりません。ですから、神様に任せるしかできません。

 出血の止まらない女とヤイロの信仰の模範に倣いながら、神様の助けを共に願いましょう。アーメン。