キリストの聖体

福音朗読箇所 マルコ14・12-16,22-26

[説教]

 

 今日はカトリック教会ではキリストの聖体を祝う祝日になっています。ある国では今日は初聖体の典礼も行なっています。日本では一般的にはそうではありません。
 イエスのご聖体の祝日が初めて行われたのはいつでしょうか。それは聖木曜日です。しかし、何故私達は聖木曜日に最後の晩餐の記念のミサを行ったのにもう一度今日特別にイエスのご聖体を祝うのでしょうか。そのご聖体の大切さを強調するためかもしれません。明らかではありません。しかし、イエスが復活した後天に上げられ出来事から今日まで次々祝日があります。聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体。何故かと言うと、全ての救いの計画を現す為です。受難から復活まで、そしてどのように復活して、イエスは人間と繋がるかと言うことを強調するためです。ですからイエスは今日の福音の、パンとぶどう酒を通して人間と繋がると言うことを話されています。
 それは新しい契約と呼ばれています。
 実は大昔から色々な契約があります。最初の契約はアブラハムの契約です。アブラハムの子孫は、空の星のように、海の砂のように多くなる。そして今日の第1朗読(出エジプト24・3−8)にもあるイスラエルとの契約です。そしてまた今日、パンとぶどう酒による新しい契約を言われています。
 今日の福音に弟子たちが何処に食事を整えるか、イエスに訊ねたと書いてあります。それは何故でしょうか。弟子たちとイエスはガリラヤとユダヤ地方の人達です。しかし、今日の場面は首都エルサレムで彼らがあまり良く知らない土地だったわけです。毎年一度だけエルサレムには行っていましたが、皆は何処でその過越の食事をしたら良いか心配だったのです。
 今日の福音に書いてある通り、不思議なことがあるのです。イエスは弟子たちに、都に入ると水瓶を運んでいる人に出会うからその人ついて行きその家の主人に、先生が「弟子たちと一緒に過越の食事をする私の部屋は何処か」と言っていると伝えなさいと言いました。しかし、その人(イエス)が何者なのか頼まれた人には説明がないので分かりません。
 しかし、一番大切なのはその出来事の中に何があるかと言うことです。イエスは、ご自分はパンであり、パンとぶどう酒を通して自分の身体と血を表す、つまり私達はミサの中で祝福されたパンとぶどう酒を頂くことで本当にイエスを頂くのです。ご聖体を頂くことで私達はイエスと1つに結ばれて、イエスは私達の中におられ、私達の生きる力となって下さるのです。これがご聖体の意味であるのです。
 そしてその集いには弟子たちだけで、何故他の人は誘われなかったのでしょうか。それには目的があるかもしれません。私達の知っている通り、これは最後の晩餐、言わばイエスの送別会のようなものです。ですから特別な方法でイエスは自分の弟子たちと一緒の時間を過ごしたのです。最後ですから、絆・繋がりを深めるためです。そしてその集いの中で色々な特別な教えが出てきました。弟子ではない人には分かりにくいかもしれません。パンを命に例えて話した時、私の身体を食べるなら救われる、と言われた時、大きな問題になってしまいました。人間の肉を食べるのはあり得ないからです。ですからそのようなことが無いように最後の日、良い送別会になるように誘われていなかったのです。自分のパンとぶどう酒は私の身体と血であるという言葉は一般の人には理解できない事かもしれません。しかし、弟子たちは分からなくても忠実にイエスの言葉に耳を傾けたから問題はなかったのです。ですから本当に良い送別会になりました。
 皆さん、今現在、ご聖体という宝物はどういう風に意味するのでしょうか。大きな問題はご聖体を頂くからと言って私達は良い生活をするとは言えません。ミサに与って、ご聖体を頂いたにも関わらず、私達はちゃんとイエスの教えを実行していると言えますか。言えないでしょう。ある意味でご聖体はどういう風に生活の中で影響があるかという事です。私達のチャレンジです。信者も司祭も同じです。信者も司祭も普通の人間としての考えを持っています。ですから私達の永遠の戦いは自分との戦いだと思います。自分の考え、自分は弱いのに自分の力で生きるというチャレンジは神様の助けは要らないという事になります。
 ですから皆さん、ご聖体を大切にしましょう。自分の生活の中で影響があるように頑張りましょう。そうでなければご聖体を頂く意味がなくなります。もちろん、教会のルールとして私たちは少なくとも毎年1回ご聖体を頂きます。しかし、良く頂くのが勧められています。時間は関係ありません。毎日頂いても毎週でも時間がある限り神様との繋がりを深めるためだけにご聖体を大事にして頂きましょう。