聖霊降臨の主日

福音朗読箇所 ヨハネ 15・26-27,16・12-15

[説教]

 

 今日は聖霊降臨のお祝い日です。聖霊は目に見えない姿ですから、実は説明することが出来ないと思います。難しいと言うより出来ないと言う言葉の方が相応しいと思います。目に見える事なら簡単に説明することが出来ます。

 そして、弟子たちの歩み、信仰の歩みを見たらupdownという形で、良いこともあるし失敗した事も沢山ありました。そして私たちの知っている通り、最初にイエスに従った弟子の人数も多くいました。しかし、少しずつイエスから去って行きました。

 最初の弟子たちはイエスの厳しい教えを聞いた事でガッカリしてしまい、イエスから去りました。残ったのは12人だけでした。しかし、その12人もイエスに出会ったからと言って完璧な者になるとは言えませんでした。ですから彼らもイエスが捕まった時、信仰が弱くなりイエスから去ってしまいました。

 しかし皆さん、不思議な事はこの信仰の足りない弟子たちに、イエスは福音宣教という責任を与えました。人間の考えによってそれは不思議であり得ない事でしょう。

 しかし、イエスの考え方と私たちの考え方は全く違います。弟子たちもいつまでも人間的な欠点を持っているとイエスはよく知っていました。そう言う訳で、彼らを強めて、導くために聖霊を送るとイエスは約束されました。聖霊降臨はその約束の実現なのです。聖霊を受けた時から、弟子たちの役割が始まり、皆のための宣教が始まったのです。

 そして聖霊の形について聖書の中ではいろいろ書いてあります。例えばシナイ山の上で神がモーセに話した時、聖霊は火の舌の形でした。また、イエスが洗礼を受けた時に現れた聖霊は鳩のような形でした。それらは神秘的な事でした。何故そのような形で現れたのか私たちにはわかりませんが、それが神様のやり方でした。

 ですから聖霊については、最も考える事ではなく、信じる事と感じる事なのです。

 では、私たちはどういう風に聖霊の働きを感じる事が出来るのでしょうか。第2朗読(使徒パウロのガラテヤ5・16-25)に明らかに書いてあります。聖霊の結ぶ実は色々あります。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。それらが聖霊の働きの実りです。簡単に言えば、全ての良い行いは聖霊の働きであるのです。逆に悪い事は聖霊の働きではありません。

 しかし、問題は第2朗読に書いてある通り、私たちの永遠の戦いは肉と霊の戦いです。肉という言葉は私たちの人間的な力という意味です。ですからバランスを守らなければなりません。人間的な力が強すぎるなら、私たちは自分の考えによって生きるようになります。私たちが知っている通り、世の中で私たちの人間的な力を超えることが沢山あります。例えば、苦しみや悲しみなど。愛している人が亡くなった時、とても悲しみます。永遠の救いという望みがないならどんな風にその死について考えれば良いか分かりません。今、コロナの中で外国人は家族と一緒に居られないので特に難しいです。その心配の中で自分の家族のことを神様に任せるしか出来ません。そのような信仰がないならどうなってしまうでしょうか。その悲しみや苦しみの中で聖霊の働きは人間を紙に結び付けるという事です。世の中の大変な状況の中で、聖霊の働きのおかげで私たちは生きる力を得て、希望を得るのです。

 皆さんはどうでしょうか。自分の信仰の経験を見たら、聖霊を感じたことはあるでしょうか。聖霊の導きによく従いましたか。一人一人考えて下さい。

 遂に今日の福音に聖霊は弁護者と呼ばれたのです。それはギリシャ語で「そばにいて助けて下さる方」という意味です。つまり、聖霊は気付かなくてもいつも私たちのそばにいて下さる方であるのです。

 その聖霊の存在と働きの信仰を強く守ることが出来るように神の導きを願いましょう。