復活節第5主日

福音朗読箇所 ヨハネ 15・1-8

[説教]

 

 4つの福音書の中でヨハネの福音書だけは少し違う書き方をされています。そのヨハネ福音書は全部で21章あり、他の福音書と違い、13章から最後の晩餐が始まっています。しかも、最後の晩餐の内容も食事の話ではなく、弟子たちの足を洗ったという話が書いてあり、食事の事よりも、主であり師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも同じようにしなさい、というのがヨハネ福音書の最後の晩餐で伝えていることなのです。そしてそのあとに13~16章を使って告別説教という長い説教が入れられています。ヨハネがどうしても描きたかった、イエスが弟子たちに伝えた話を書いています。そして13章の続きにあるのが、「あなたがたに新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい」というのが告別説教の最初に描かれています。イエスが弟子たちの足を洗ったというのは、このことをしたように私がそうしたのだからあなた方も互いに愛し合いなさい、と言いうことに続きます。

 そして今回の15章のキリストはぶどうの木、という例えの中から、私たちがあなたに繋がっているようにという話から、15章にもう一度、私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である、という話が続きます。

 この福音のとても大切なところだと思います。

 私たちキリスト者の掟は何ですかと問われたら、互いに愛し合いなさい、と答えられるように理解していなければなりません。それくらいこの告別説教で言われている大事な掟なのです。そして、この互いに愛することが出来るためには、キリストに繋がっていなければなりません。しかもその繋がり方も実を結ぶような繋がり方でないと、最初に繋がっていると言いながら実を結ばないものは切り取られてしまうというような話があります。

 私たちは今、コロナ禍にあって色んなことで繋がるということを考えています。特に、リモートで繋がりたいというのがあり、Zoomなど新しい繋がり方がありますが、その繋がり方というのは、勝手に繋がれるし、勝手に切ることも出来、自分中心での繋がり方であると思うのです。

 今回の福音のように、枝で繋がっていて実を結ぶためには、そのような繋がり方では駄目だと言われているのは確かだと思います。枝がしっかりと栄養を頂き、それによって実を結ぶような繋がり方をしなければならないという、キリストには正にそういう繋がり方をして、私たちはキリストに栄養を頂いて実を結ぶことが出来るということを、どうかもう一度しっかり私たちは考えたいと思います。

 そして今私たちがキリストと結びついて栄養を受けるのは、やはりこの主日に集まるミサなのです。ミサの中でキリストのみ言葉を聞き、聖書の言葉を聞いて、更に御聖体を頂くということをして、そこから栄養を受けて私たちはキリスト者としての生き方が出来るということになっていきます。

 このコロナ禍で教会に来ることが難しいと考えることもあると思いますが、やはりキリストに繋がってそこから栄養を受けるためには、主のみ言葉と主の御体に養われていなければならないと思います。コロナのためZoomやYouTubeなどで御聖体も霊的拝領をということも行われています。確かにみ言葉はこれらの事から聞くことは出来ますが、しかし、御聖体によって養われることは出来ません。もしそのような状況にあってもミサではない時に、教会を訪ねて御聖体を頂いてほしいと思いますし、必要であれば私たちも家庭を訪問し御聖体を持っていくということもしたいと思います。

 神の言葉とキリストのからだに養われてキリストに繋がっていく生き方が出来た時に、互いに愛し合いなさいという生き方が出来るのではないかと思います。互いに愛し合うということは、どこまでしたらよいのか分からないという大変な掟になっています。ですが、それが出来るためにはキリストに繋がる、その命を頂かないと出来ないということは確かだと思います。

 主のみ言葉とキリストのからだに養われること、その中で自分だけではない多くの共同体に支えられることによって、そのようなことが出来るということを今回の福音の中から大切にしていきたいと思います。