復活節第4主日

福音朗読箇所 ヨハネ 10・11-18

[説教]

 

 皆さん、ヨハネによる福音の色々な例えを通して、イエス様は自分の事を紹介しています。今回の箇所では羊飼いの例えが語られています。

 イエス様の時代に羊飼いは大変な仕事でした。彼らは遊牧して、昼夜オオカミや盗人から羊たちを守らなければなりませんでした。そして、夜は全ての羊を囲いに入れました。各羊飼いは別々の囲いを作らず、一つの大きな囲いにそれぞれの群れを入れました。そして朝早く、各羊飼いたちは自分の群れだけを出しました。一般的に羊飼いは自分の群れをよく知り、そして羊も自分の羊飼いの声をよく知っていました。

 この例えを通して、イエス様と人間の繋がりが説明されています。イエス様は羊飼いのように、ご自分の群れをよく知っていて、自分の群れのために大きな犠牲を払いました。私たちが知っている通り、イエス様は人々に教えを説き、色々な奇跡を行っただけではなく、ご自分の命を捧げたのです。

 そして、今回の箇所ではこの囲いに入っていない他の羊もいるという言葉が出てきます。この言葉は異邦人を示しています。つまり、イエス様が世に遣わされたのはユダヤ人のためだけではなく、全ての人を救うためなのです。確かにイエス様本来の使命はユダヤ人のためでしたが、ユダヤ人に拒否されたために自分の使命が広がっていきました。福音宣教を行ったとき、イエス様が異邦人を癒したことがありますが、特に天に上げられた後、弟子たちを通してその異邦人のための福音宣教が始まったのです。今日、ここに集まっている私たちはその弟子たちの宣教の実りであるのです。

 しかし、現実としては洗礼を受けたにもかかわらず、教会から離れた人が少なくありません。もう教会に来ない。時間があっても来ない。あるいは教会から離れてはいませんが、生き方はカトリック教会の教えに従わない。ミサにはよく来ますが生活の中でイエス様の教えの影響がない。例えば自分中心という考え方を持ち、周りの人の状況に気を配らないとか、汚職、いじめや差別をする。実はそのような人々は迷った羊と呼ばれているのです。羊飼いの声というイエス様の教えを知っていても従わない。羊飼いをいうイエス様の導きを無視して、自分の望み、自分の考えによって生きるということなのです。私たち一人一人はどうでしょうか。羊飼いというイエス様を知り、従う羊でしょうか。それとも迷った羊でしょうか。一人一人考えて下さい。

 ですが、皆さん、今回の箇所でイエス様はご自分は良い羊飼いであると言われています。ご自分の群れを愛し、ご自分の群れのために命を捧げるのです。今回の箇所には書いてありませんが、マタイとルカによる福音に、良い羊飼いは自分の群れを愛し、守るだけではなく、迷った羊を探す人であると書かれています。普通の人間として時々私たちは迷うことがあるはずです。それは人間として当たり前のことだと思います。しかし、私たちが覚えなければならないことは弱く、欠点に囲まれているにもかかわらず、神様は私たちを愛してくださるのです。間違いがあっても神様は私たちを許して下さるのです。ですから、救いに対する決定は私たち次第です。迷った時、神様を待ち、見つかったら神様の導きに従って帰る。あるいは迷った時、戻りたくない。確かに神様の望みは全ての人が救われるということですが、人間の方からは自分が決めます。

 皆さん、自分の経験によって今までの神様との繋がりはどうでしょうか。一人一人反省しましょう。