復活節第2主日 神のいつくしみの主日

福音朗読箇所 ヨハネ 20・19−31
[説教]

 ヨハネ福音書の20章に復活の様子がずっと描かれていきます。その一番最初の部分は先週の復活祭に読まれました。週の初めの日の朝早く、と言うところから始まっています。今回の福音も、週の初めの日の夕方、と言うことは同じ日と言うことです。週の初めの日、すなわち主日の朝早く、先ずマグダラのマリアが一人で墓に行ったと言う話から始まっていました。そして、マグダラのマリアは墓の入り口の石が退けてあるのを見てそれを弟子達に「主が墓から取り去られました」と伝えに行きます。するとマグダラのマリアと二人の弟子が墓へ行き墓が空だったと言う現実を見ます。その後、その場に一人残ったマグダラのマリアだけは未だイエスを探して居る状況が続いて書かれています。探し続けるマリアの前に園丁のような人が現れます。マグダラのマリアはその人に向かって、あなたが遺体を持って行ったのなら私に返して欲しいと言う話をします。しかし、そのやり取りの中で次第にその人がイエスだと分かり、マリアが「先生」と言い、復活されたイエスとの最初の出会いがありました。ところがイエスは、すがりつくのは止しなさい、それよりも私が来たところへもう一度行くと言うことを弟子達に告げるように言います。そしてマリアはその後に弟子たちの所へ行き「私は主を見ました」と言うまず主観的事実を伝えます。その後イエスから伝えられたことを、つまり客観的事実を伝えました。この主観的事実と客観的事実の2つはとても大事なことと言われています。自分が主観的に見て信じたと言うこと、聞いたことを伝えて証人となること、この2つが大事なことと言われています。
 そして今回の福音へと続いて行きます。週の初めの日の夕方、他の弟子達皆に現れます。しかし、週の初めの日の夕方の話とその8日後の話は全く同じパターンで書かれています。
 どちらも家の戸に鍵を掛けていたのに、その中にイエスが来られて、あなたがたに平和があるように、と挨拶をされました。それから弟子達にこうしなさいと指示を与えられました。恐らく初代教会の中では見ないと信じないと言う人たちが多くいたのではないでしょうか。このトマスのように、ある人は(イエスとの)出会いがあって信じた人も居たのでしょうが、私は会わないと信じないと言う人も多く居た、その中でどのように考えるのか。イエスの言うように「見ないのに信じる人は幸いである」、私たちは見ても信じない人は居ると思います。つまり、見ることが絶対ではないのです。主観的事実は大事な事ですが、それよりも聞いてそれを自分のものにして信じるかと言うことが大事だと言うこと、客観的真実が大事だと言うことを伝えようとしています。
 皆さん、是非私たちも、今キリストとの出会いがそれぞれあると思います。自分が出会ったと言う主観的なものももちろん大事にして欲しいのですが、やはり色々聞いてその中で私たちが大事にしなくてはならないものがもしあるとしたら、それを客観的事実として受け入れてそれを生きて行くというのがこの伝えられた言葉を大事にして行くということになるのではないでしょうか。
 復活の出来事、復活の命を生きるということはどういう風にして行けば良いのかなかなか難しいことかもしれませんが、しかしその大事なものを受け入れていたのが喜びに変わった時、私たちにとって大切なものになって行くのではないでしょうか。
 復活の命に与ったばかりですが、どうか新しく洗礼を受けられた方々と共に私たち自身も自分の信仰をもう一度考え、その中にどのような喜びがあり、どのように新しく生きて行くというその思いを大切にしていきたいと思います。