受難の主日(枝の主日)

3月28日 受難の主日(枝の主日)

マルコによる主イエス・キリストの受難 マルコ15・1-39

[説教]

 

 マルコが描く受難の特徴の一つは、「エロイ エロイ レマ サバクタニ」と言う言葉をイエスの最後の言葉にしていることです。「わが神 わが神 なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。本当にイエスはこの言葉を言ったのだろうかと私たちは考えてしまいがちですが、これはもともと詩編22の最初に書かれている言葉です。もちろんイエスは日々の祈りの中で詩編の祈りをいつも唱えられていたことでしょう。きっと全て覚えておられたでしょう。ですから、このご自分の受難の時にこの詩編の言葉が出て来たのではないでしょうか。「わが神 わが神 なぜ私をお見捨てになったのですか」と神様に向かって助けを求めるような言葉を本当に言ったのかどうかを考える事が出来ると思います。

 しかし、詩編22はこの言葉で始まってはいますが、最後は希望に満ちた神への信頼の言葉に変わって行きます。やはり、その全体を見た時に、イエスのこの言葉も祈りの全体の中で言われているというのも見えてくると思います。そして、エリヤを呼んでいるという言葉があります。このエリヤを呼んでいる言葉が、詩編22が結び付くということも見ていかなくてはなりません。

 もう一つの特徴は、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた、ということです。神殿というのはご存じの通り神様のいらっしゃる場所です。その神殿の一番奥の至聖所というところには決められた祭司しか入ることが許されませんでした。至聖所という一番奥、神様と出会う所には特別な人しか入れない、更にそこにはユダヤ人の男性しか入れない。その外にはユダヤ人の女性も入れる、更にその外には異邦人も入れる、という風に完全に分けられていた場所でした。神殿は神様と出会い、神様と共に居るためにはそういう段階が必要でした。

 その神殿の一番奥の垂れ幕が裂けたのです。イエスはご自分が十字架に掛かり、復活の出来事によって、そうではない、神様(神殿)は全ての人に開かれたものになったということを示されたのです。これは恐らく神の側からの示しが成されたということでしょう。

 では人間の側からの示しはどうだったのでしょうか。まず、そばに居合わせた人々。さらに百人隊長はそばに立っていた、という風に書き方は違いますが同じ言葉です。居合わせる、そばに立っている、は違うように思えるかもしれませんが、この言葉のニュアンスの違いは人間の受け取り方ではないでしょうか。何故そこに居るのか、それともしっかり自分が何かを見ようとしているのか、同じ言葉でもその受け取り方によって違ってくるという事を表そうとしているのです。同じものを見るのですが、ある者は馬鹿にして見ている、もう一方はこの人は本当に神の子だったと見ている。同じ所に立っていながら、立っている時の気持ち、そしてその出来事をどの様に自分のものとして見ていくのかによって、受け取り方が変わってきます。神様側は全ての人に神様が皆の心に表されましたと示してくださっているのに、人間側の見方が変わらない限り神様が示してくださったことが無意味になるのではないでしょうか。

 詩編の言葉にあるように、神様は私を見捨てられたのかという言葉が本当にそのように思ってしまう人々の中にある思いなのか、それともこの言葉にもっと希望を持って、見捨てられることなどあり得ないという思いの中で見つめることがとても大切なことなのではないでしょうか。 

 聖週間に入ります。私たちの見方というものがどういうものなのか、同じものを見ていても、しっかり何を見たいのかを大切にしていきたいと思います。