四旬節第5主日

3月21日 四旬節第5主日

福音朗読箇所 ヨハネ 12・20-33

[説教]

 

 イエスの本来の使命はユダヤ人のためでした。イエスの福音宣教は、大体ガリラヤ地方とユダヤ地方のユダヤ人が住むところだけで行われていました。しかし、イエスの時代、エルサレムには商売のために多くの異邦人が居ました。彼らもイエスの教えとなさったことについて見聞きしたはずです。この福音の中で何人かのギリシャ人がイエスを探したのは、彼らはイエスに感動したからではないでしょうか。

 しかし、そのギリシャ人の願いを聞いてから、フィリポは何故直接イエスに伝えず、むしろアンデレの所へ行き、そして一緒にイエスの所へ行ったのでしょうか。イエスの宣教活動はユダヤ人のためだけだとフィリポはよく理解していたからです。一人で異邦人のことを直接イエスに伝える自信がなかったと考えられます。

 その異邦人の願いを聞いた時、一粒の麦の例えを通して、イエスは自分の使命について話しました。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ、と言われました。つまり、イエスが十字架の苦しみと死を避けるなら、イエスを受け入れる人は少なかったかもしれません。あるいは自分(イエス自身)の使命は失敗していたかもしれません。しかし、十字架上で死に、復活したことでユダヤ人だけではなく多くの異邦人が信じるようになったのです。私たちが知っている通り、イエスが死から復活して天に上げられた後、パウロとルカの宣教活動を通して、多くの異邦人がイエスに従いました。こうしてイエスに対する信仰が広まっていったのです。

 そして、自分が人間を救うために、命を捧げると同様に、信仰を持っている人々も自分の命を他人のために捧げられるはずだとイエスは誘われました。この招きを強調するために自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で命を憎む人はそれを保って永遠の命に至るとイエスははっきり言われました。この言葉は解りにくいかもしれません。しかし、一粒の麦に基づくと、説明が出来るのです。一粒の麦は養分と水分と繋がっていることで豊かな実を結ぶことが出来るのです。私たちも同じではないでしょうか。私たちは世の中で一人で生きることは出来ません。より良く生きるために私たちは神様と他人と繋がる必要があるのです。私たちは完全ではなく不完全です。それを他人に助けてもらいながら生きていくものです。お互いを支え合うこと。

 自分の命を愛するという言葉は、自分中心という生き方を意味します。逆に自分の命を憎むという言葉は、自分の命を無駄にするという意味ではなく、自分の命を分かち合うという意味なのです。つまり、自分の命を自分の目的を得るために使うだけではなく、自分の命は他の人のために役立つものとなるべきです。この福音のメッセージはこのことだと思います。

 では、私たちはどのように自分の命を他の人と分かち合うのでしょうか。命を伴うことは色々あります。能力、技術、考え、富など自分の目的だけではなく、全ての人に使うべきです。皆さん、どうでしょうか。自分の命は他の人に役立っていますか。あまり役立っていなくても心配はありません。復活祭まで回心する時間はまだあります。この福音に、私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる、とイエスは言われています。ですから、私たちは信仰を持って、そして自分の命と他人の命を大切にするなら、報いとして神様が私たちを大切にして下さるはずです。

 皆さん、私たちが自分の命、そして他の人の命を大切に出来るように神様の導きを共に願いましょう。