四旬節第3主日

3月7日 四旬節第3主日

福音朗読箇所 ヨハネ 2・13-25

[説教]

 

 ユダヤ教の中で神殿に関する祭りと務めは沢山あります。イエスと両親はユダヤ人として、その祭りと務めをよく果たしていました。例えば、ヨセフとマリアは清めの期間が過ぎた時、イエスを神殿で神に捧げました。毎年過ぎ越しの時、イエスは両親と共にエルサレムに行きました。その祭りと務めに必要な捧げものがあるからです。一般的にはそれは牛と羊と鳩でした。

 イエスの時代にイスラエルはローマ帝国の支配下でした。結果として商売に使われる貨幣はギリシアとローマの貨幣だけでした。しかし、そのギリシアとローマの貨幣は神殿への献金には使えませんでした。ですから、遠くから来る人々は自分の所でギリシアとローマの貨幣を使っていたために、神殿へ行った時、貨幣を交換しなければならなかったのです。最初の内は問題はなかったのですが、時間が経つにつれて様々な問題が生じるようになりました。牛と羊と鳩の価格が上がってしまったのです。貨幣を交換した時、人々は両替をしていた者たちに騙されたのです。神殿は祈りの場から商売の場へと変わってしまったのです。ですからイエスは怒った訳です。

 そして、ユダヤ人たちの議論に対して、イエスは「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる」と答えました。イエスがこの時言われた神殿とはご自分の体の事だったのです。私たちが知っている通り、イエスは死から3日目に復活なさいました。確かにユダヤ人たちはイエスの言われた事が理解出来ませんでした。弟子たちも同じでした。弟子たちがイエスの言われた事を理解することが出来たのはイエスの復活の後なのです。

 神殿の本来の意味は神様の住まい、人が神と出会う場所なのです。しかし、イエスは建物という神殿の意味だけではなく、自分の体は神殿であると話す事でイエスは神秘的な神殿を表したのです。神秘的な神殿は建物ではなく、感じる物という意味です。つまり、人間は日常生活の中で神様の存在を感じる事が出来るのです。私たちはどこでも神様と出会う事が出来るのです。イエスはこの神殿の新しい意味を話したのはエルサレムの神殿の将来の破壊を知っていたのかもしれません。実はエルサレムの神殿はイエスの死から40年後、70年にローマ軍に破壊されてしまいました。神殿の破壊によって、選ばれた民というイスラエル人のアイデンティティが無くなってしまったのです。逆にイエスの生まれと復活を通して、神様は人間と共に居られる事を信じる人々に対し、建物がなくても問題はないのです。エルサレムの神殿が壊れてから、信じる人々の日々の生活が神様との出会いの場となったからです。

 皆さん、私たちは教会をどのように考えていますか。現在、確かに教会の建物が多くあります。今、教会は祈る場所であるという印象が強くあります。それは間違いではありません。ですから、私たちはどのように教会の建物を祈りの場として相応しく使うべきかよく考えて大切にしなければなりません。

 一つ目は、相応しい行いです。教会に居る時、自分の事だけではなく私たちは周りの人の事に気を配るべきです。例えば、誰でも静かに祈りたいはずです。教会に入ってから誰でも沈黙しなければなりません。スマホの電源も切るべきでしょう。皆が静かに祈ることが出来るよう、皆がお互いに協力し合わなければなりません。

 二つ目は教会の雰囲気です。教会は平和と愛の泉となるべきです。誰でも教会に来る時、平和と愛を感じるべきです。その事を感じる事が出来ない場合、何か問題があるはずです。その問題の多くは人間関係にある事があります。信者たちだけではなく、司祭もその平和と愛のために協力すべきです。確かに、全ての信者と司祭は別々の性格を持つために、時々問題が起こりますが、問題があっても愛と平和に基づいて解決するべきです。そして教会で苦しんで、病んでいる人は少なくありません。ですから虐めと差別が無くなるよう互いに協力し合うべきです。そうでないと、私たちが教会に来る意味がなくなります。

 三つ目は先に話した通り、神様は私たちの間に居られます。皆さん、自分の日常生活で神様の存在を感じていますか。日常生活の中で愛と平和を感じていますか。多くのカトリック信者はロザリオ、あるいは十字架のネックレスを使ったり、家で十字架とマリア像を置いていたりします。それはとても良い習慣だと思います。何故ならそれらは神様の存在の印として使われてきたからです。ですから、私たちはどこでも神様と出会う事が出来るため、個人的な祈りを大切にしなければなりません。

 皆さん、祈りの場である教会に相応しい行いをし、良い雰囲気を作りながら、日々の生活の中で神様の存在を感じる事が出来るよう、神様の導きを共に願いましょう。