四旬節第1主日

2月21日 四旬節第1主日
福音朗読箇所 マルコ 1・12-15
[説教]
 今日の福音の箇所は二つの部分から成り立っています。イエスの荒れ野での誘惑とイエスの宣教活動開始についてです。
 イエスが宣教活動を始める前に40日間荒れ野で断食と祈りを行いました。その時サタンが来て、イエスを試しました。しかし、イエスはサタンの試しを超えて、忠実に父に従いました。
 サタンの役割は人を神様から引き離すことなのです。ですから、現在でも私たちを神様から引き離す全てのことはサタンの働きであるのです。サタンとの戦いは永遠の戦いと言われています。私たちの信仰はいつまでも試されているのです。しかし、イエスは誘惑に負けないという模範を示しました。イエスのように私たちは信仰を強く守るなら、その誘惑を超えることが出来るはずです。信仰によって救われるということは今日の第1朗読(創世記9・8-15)に明らかに書いてあります。神様が洪水で人々を滅ぼしたのは、彼らが神様から離れたからです。ノアだけが忠実に神様を信じていました。神様の命令通りノアが箱舟を作った時、皆は笑ってノアを虐めました。それで彼らは洪水によって滅ぼされましたが、信仰を持っているノアは救われました。その物語の大切なところは、罪は人間を死に連れ込みますが、信仰は命が生じるということなのです。
 そして第2朗読(一ペトロ3・18-22)に洪水によって地を滅ぼすことは決してないという神様とノアとの約束の結果が書かれてあります。人間が罪を起こしても、神様が人間を滅ぼさない。むしろ、彼らを罪から救うために自分の御子を世に遣わされたのです。その正しい者という神の御子は正しくない者たちのために苦しまれて、殺されたのです。しかし、死から復活したことで、人間の罪が完全に除かれたのです。ですから、第1と第2朗読の話の流れを見たら、人間に対して神様の愛は本当に深いのです。神様は人間の滅びを望まず、皆が救われるようにと望んでおられます。つまり、私たちの救いは私たち次第なのです。神様は私たちに対して自由という恵みを与えて下さったからです。私たちは自由に神様から離れることもできるのです。神様は自分の御子を通して救いの道をお教えになりました。しかし、どういう風にその神様の誘いに応えるかは私たち次第です。
 今日は四旬節の第1主日です。四旬節第1主日は【荒れ野の主日】と呼ばれています。荒れ野は静かで、乾いていて、獣が多い場所でもあります。人間は時々荒れ野に居るような経験をします。苦しみは一つの荒れ野のような状況です。例えば自分の信仰を疑うときとか愛する人々に離れられた時とかいろいろな生活の問題を解決することが出来ない時などです。しかし、イエスは荒れ野の経験を通して宣教のための力を得たと同様に私たちもその苦しみを避けないで、苦しみはやむを得ない事に気付き、頑張らなければならないのです。そして、時々苦しみは人間の能力を超えるために、力を得るようにイエスと同様に私たちも神様に苦しみを任せるべきなのです。誰一人神様の手伝いなしには生きることが出来ないからです。
 四旬節は黙想の期間と呼ばれています。私たちの信仰生活は今までどうですか。今まで私たちの人との繋がり、そして神様との繋がりはどういう風に行われているかという黙想です。今日の箇所にイエスの宣教で、神の国が近付いて、回心して、福音を信じなさいと書いてあります。ですから、自分の生活、自分の生き方を見た後、失敗した事が沢山あったなら、回心して、この四旬節に少しずつ神様に向かって生き方を変えなければならないと思います。そして、四旬節中に3つの大切なことがあります。祈り・節制(断食)・愛の業(施し)です。
 皆さん、イエスの復活の出来事を相応しく迎えることが出来るように、心の準備をし、この黙想の期間を大事にしながら回心して、祈り、断食、施しを大切にして過ごしましょう。