年間第5主日

2月7日 第5主日

福音朗読箇所 マルコ 1・29-39
[説教]

 

 皆さん、福音宣教を行ったとき、イエスがなさったことが三つあります。それは、教えること、奇跡を行うこと、祈ることです。今日の福音の中で奇跡を行うことや祈ることだけが明らかに示されていますが教えたことは書かれていません。しかし、人々の前に居たとき、イエスはいつも人々に教えたはずです。

 前回の福音は、イエスは悪霊に取りつかれた男を癒すことについて書かれていました。その男を癒したことでイエスの噂がガリラヤ地方全体に広まったと書かれてあります。ですから、イエスがシモンとアンデレの家に居られて、熱で寝ていたシモンの姑の癒しを聞いた時、多くの人々が病人を連れて集まってきました。しかし、人々を教えて、奇跡を行うという忙しい中で、イエスはいつも天の父との繋がりを大事にしておられました。朝早く、人里離れた所へ出て行って祈られました。

 そして、多くの人々がイエスを探していたにもかかわらず、イエスは他の町や村へ行きました。それは何故でしょうか。私たちが知っている通り、イエスが福音を述べ伝えるのはその村にいる人々の為だけではなく、むしろ全てのユダヤ人の為だからです。その村に戻ったら、その村の人々はイエスが他の所に行かないようにと願ったはずです。しかし、実はイエスは彼らの信仰を試していたのです。イエスのなさったことを見聞きしたことで、皆は信じるようになったでしょう。しかし、イエスが居ないとき、彼らがその信仰を守り続けることが出来るでしょうか。

 皆さん、現在私たちがイエスのことを知るのは聖書を通してだけでしょう。ですから私たちは直接イエスに出会うことが出来ないため、私たちの信仰のチャレンジはイエスの時代の人々よりもっと大変だと思います。現在、技術が発達するにつれて、多くの人が宗教的なことに興味がなくなってしまうのです。何でも便利になるという世界の中で私たちが神秘的な存在を信じて、信仰を守り続けるのは素晴らしいことです。そして、技術は全ての人間の問題を解決することが出来るとは言えないでしょう。例えば、人間関係、家庭関係、命の意味、死の意味など。しかし、宗教的な教え、特にカトリック教会の教えはそれらの問題に役立つのです。

 ある国でこんな話がありました。その国で大金持ちの人の孫がマザーテレサの修道院へ入りました。彼女は豪勢な生活の中で本当の幸せを感じることが出来なかったのです。修道院へ入って、多くの人、特に貧しい人に仕えたことで自分の命の意味、自分の命の目的を理解するようになりました。

 皆さん、イエスは神の子として自分の力で何でもすることが出来るはずです。しかし、誇らず、父との繋がりを大切にし、よく祈りました。こうしてイエスは私たちに対して模範を表しています。キリスト教の信者として私たちは神様との繋がり、祈りを大切にしなければなりません。私たちは神様を信じると言いますが、祈らなければ意味がないのです。そして、苦しみの時、問題がある時だけ祈るのは相応しくないことです。むしろ、喜びの時も苦しみの時も私たちは祈らなければならないのです。祈りとは、時間に関係なく、いつでもどこでも行うことが出来ます。そして一番大切なのは心からの祈りなのです。

 皆さん、信仰を強く守りながら、イエスの模範に従って、祈りを生活の中心として大切にしましょう。