年間第2主日

1月17日 年間第2主日

福音朗読箇所 ヨハネ 1・35−42

[説教]

 

 今回の福音は、最初の弟子達の呼びかけについて話しています。

 この箇所に、洗礼者ヨハネが二人の弟子にイエスを紹介したと書いてあります。「見よ、神の子羊だ」と洗礼者ヨハネは言われました。実は同じ言葉をイエスの洗礼の出来事にも示されたのです。洗礼者ヨハネはイエスの姿を見た時『見よ 世の罪を取り除く神の子羊だ』と言われました。しかし、その時人々の反応は無かったのです。

 しかし、この福音の中でその言葉を聞いてから二人の弟子達は直ぐにイエスに従ったと書いてあります。そしてイエスは、二人の弟子に「何を求めているのか」と質問しました。それは大事なことだと思います。何故かと言うと、二人がイエスに従うのは理由があるはずだからです。自分の先生洗礼者ヨハネがその方、イエスを尊敬しているために、イエスは普通の人ではなく偉大な人であると思ったのです。イエスを洗礼者ヨハネと同様に、教える権威を持っている方であると思ったからです。イエスにもっと聞きたい事がある。その時イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と仰せになりました。それは救いへの招きであります。イエスは誰にでも心を開いて「どうぞ、私の元に来なさい。救いを経験してください」と答えてくださっています。

 しかし、二人の弟子の答えは少しおかしな答えです。イエスの「何を求めているのか」と言う質問に対して「先生、どこに泊まっておられるのですか」と答えています。質問と答えが繋がっていないのです。しかし、それはユダヤ教の文化の中に、知らない人の泊まる所を質問する時、普通の質問ではないと言う意味があるのです。その質問をしたら、その質問した人は相手の所に行きたいと言う意味があるのです。つまり、二人の弟子達は本当にイエスと共に時間を過ごして、イエスからもっと聞きたい事が沢山あると言う意味なのです。

 皆さん、この質問は私達に向けて語られていると思います。私達はどんな理由でイエスに従うのでしょうか。今まで信仰を持っているのは何の為でしょうか。確かに一人一人の経験によって理由があると思います。しかし、一般的に多くの人がイエスに従うのは、イエスに倣い、イエスと共に生き、イエスと共に天国で、神の国で救いを経験する為だからです。

 「イエスに倣うこと」「イエスと共に生きること」は平等の中での目的があります。イエスの中心的な教えは、愛と平和です。イエスの様に愛と平和に満ち、生活をする事が出来るようにイエスに従う。私達もイエスと共に歩み、喜ぶ時も悲しむ時も頑張って生きると言う目的でイエスに従う。

 アンデレはイエスと共に時間を過ごしたと、自分の兄弟シモンの所に行って、「私達はメシアに出会った」と言いました。それは素晴らしいことです。何故なら、アンデレは救いを経験するのは自分だけではなく、他の人も救いを経験する様に言ったからです。

 救いとは、自分の為だけではなく、皆の為にあります。ですから私達も他の人の為に祈ると言う事です。アンデレの様に自分の為だけにではなく自分の兄弟の事も考える様に、私達も教会の中で自分の事だけではなく他の人の事も考えてください。教会の一つの意味は、信じる人の生き方、と言う意味なのです。建物だけではなく、信じる人の集い、信じる人の生き方。教会の中に生きて信じる人は、互いに助け合い、愛し合い、励まし合い、それが信仰の目的でもあります。

 イエスは天に上げられる前、弟子達にこう言われました。「全世界に行って全ての人を私の弟子にしなさい」と。全ての信じる人は弟子と言われています。ですから私達も同じ責任、同じ使命を果たすべきです。全世界に行ってイエスを紹介すると言う使命です。

私達がイエスの教えに基づいて生きる、私達の生き方を見る事で、人々がイエスを知る様になると言う宣教のやり方があります。言葉ではなく、イエスの教えに基づいた生き方を通して、他の人が私達が信者である事が分かる様になります。

ですから皆さん、私達はイエスに従い、イエスの弟子という使命を果たす事が出来る様に願いましょう。